ひとりごと
〜2005.April〜

あの頃きみは 僕にれんげ草を摘んでくれた
土にも草の中にも 全ての命動いていた

(渡辺美里「Tokyo Calling」より)



4.29 fri.

竹ノ塚の手動踏切事故、JR福知山線の脱線事故と、
あまりにも悲惨な鉄道事故が2件も続けて起きました。
亡くなられた方のご冥福を、心からお祈りしたいと思います。




と同時に、あまりにも身近にあり、そして選択の自由が少ない
「公共」の機関であるからこそ、より一層の安全対策に力を入れて
欲しいと思います。








ただ、確かに「不幸な事故」ではありましたが、その責を
東武鉄道やJR西日本のみに負わせるのは、私はあまりにも
一面的だと思っています。「公共」機関だというのならば、
そのあり方による利益とリスクを負わなければならないのは、
最終的にはやはり「利用者」なのであって。








例えば東武鉄道の事故の場合、「この時代にまだ手動踏切なんて…」と
テレビで堂々と発言しているコメンテーターを、私は何人も見ました。
時代遅れの手動踏切を設置していた東武鉄道に、この事故の責を
全面的に押し付ける発言であるように、私には思えてなりません。




でも普通に考えれば分かる話ですが、鉄道会社としては、
自動踏切よりも手動の方が人件費などで維持コストはかかるのです。
それなのに敢えて手動踏切を残していたのは何故なのか?




それは、自動にしたら完全に「開かずの踏切」になってしまう踏切を、
人の手で弾力的に運用して、少しでも開けようとしていたからです。
いうなれば、会社は地域住民に対する完全な「善意」で、
わざわざコストのかかる手動踏切を残していた訳です。




実際、竹ノ塚駅の踏切は、事故後、厳格な運用がされるように
なった結果、最大で1時間のうち57分が閉まっているという、
本当の「開かずの踏切」になってしまいました。








そもそも、線路内はあくまで鉄道会社所有の敷地であって、
線路を横切る道路は、原則としては「通してもらっている」ものです。
つまり踏切の存在自体が、鉄道会社の「善意」によるものなのです。
その点を忘れて、「踏切を作った会社が悪い」と、あまりにも単純に
犯人を設定しすぎていないでしょうか?




(もちろん作った以上、運用者には安全を守る義務がある訳で、
この論理で今回の「過失」がすべて免罪される訳ではありません)




(また、私が被害者の遺族だったら、間違いなく東武鉄道の本社に
火をつけるでしょう。でも、その踏切にまったく関係のない人間が、
遺族の憤りを盾にとって鉄道会社を糾弾するのは、単なる
「大企業いじめ」以外の何者でもないように思えます)








さて、東武は先日、線路を横切る歩行者用陸橋を作ることを
発表しましたが、住民は根本的な解決にはならないとして、
あくまで線路の高架化を求めていく構えのようです。




普通、高架化する場合は一緒に複々線化工事も行います。その場合、
まず2本の既存線路はそのまま利用しながら、その隣に高架線路2本を
作ります。それが完成したら、今度は列車を走らせる線路を高架に
切り替えて、元々あった2線の高架化工事を行い、最終的に高架線路
4本を作り上げる訳です。




ところが、竹ノ塚駅は既に地上に複々線を敷設してしまっており、
これを高架化しようとすると、どこかに4線分の代替用地を
取得しなければなりません。しかも、その用地は工事終了後は
単なる空き地になってしまいます。




そもそも、何で複々線化する際、竹ノ塚周辺は高架化されなかったのか?
あそこを高架化する場合、隣接する車庫や大師線への分岐部分、
環七との陸橋、そして隣の西新井駅まで構造を変える必要があり、
現実問題として高架化が難しかったためです。たぶん。




そして現在1兆円を超える有利子負債を抱える東武鉄道に、
そんなことが出来る体力があるとは、とても思えません。








どうしても踏切が嫌で、でも線路は渡りたいのであれば、
考えられる選択肢としては、次の3つくらいでしょうか。



1.自分たちで億単位の金を寄付し、高架化工事を断行させる。
2.利用拒否運動を起こし、列車の運行本数を減らす。
3.利用拒否運動を拡大させ、東武鉄道そのものを倒産・消滅させる。



高架化すれば人の導線が変わる訳で、地元商店街との摩擦も
起こるでしょう。いずれにしても、どの選択肢を選ぶのかは、
地域住民が決めることであって、外野が口を挟むべきことでは
ありません。




そしてあの手動踏切も、無数にある選択肢の中から、鉄道会社と住民が
選んだ一つの結論だった、ということだけは、忘れてはならないように
思うのです。








福知山線の事故も、構造は同じです。
メディアは「JRが運転手に『ダイヤ厳守』の圧力をかけていた」と、
JRの体質を問題にしていますが、そういう論調を見ると、
私は「じゃ、JRに圧力をかけてたのは、誰?」って言いたくなります。




つまり、そもそも「ダイヤ厳守」を誰よりも望んでいたのは、
私たち利用者なのではなかったのか、と。




例えば、1分30秒の遅れを維持したまま、安全運転であの列車が
到着していたとしましょう。当然、接続列車にも遅れが生じます。
ダイヤの乱れは誰かが「回復」させない限り、少しずつ拡大して
いきます。




そこで遅れが2分になり3分になったとき、舌打ちするのは、
私たち利用者です。「3分くらい、別にいいや!」と思う人は、
このご時世、おそらく少ないのではないかと思います。








JRは運転士に「ダイヤ厳守」の圧力をかけていたかもしれません。
でも、そのJRに圧力をかけていたのは、私たち自身です。
JRを糾弾しつつ、「安全運転して。でもダイヤは守って。
快速は増やして。運転本数は減らさないで。」と要求するのは、
それこそ根本的な原因(=自分自身)の隠蔽に他なりません。








便利を求めるのであれば、必ずリスクを負わなければなりません。
本当に「徹底的に」原因を明らかにしたいのならば、糾弾されるべきは
鉄道員や鉄道会社ではなく、鉄道に利便性の向上を要求しつづけてきた、
私たちの生活そのものなのではないでしょうか。














4.23 sat.

今さらですが、ようやく映画版「世界の中心で、愛を叫ぶ」を観ました。




セカチューに端を発する純愛ブームについては、昨年2004年6月9日
ニッキで一度熱く語っているのですが、今回は改めて、純愛ブーム批判を
展開させてください。いろいろと思うところがあったんで。








師匠・北田暁大氏を激怒させた(北田 2005『嗤う日本のナショナリズム』
日本放送出版協会 p10)この作品。私もいろいろとツッコミたいの ですが、
とりあえず、これだけは言わせて。




…やっぱ、コレって、まんま美少女ゲームやんけ!!!




またその話かい…って思われるかもしれませんが(2004.6.9ニッキ参照)、
だって、そうとしか思えないんだもん!!




例えば冒頭、朔太郎と亜紀の出会いの場面。朔太郎の原チャリに
二人乗りして海まで来た二人。夕暮れの防波堤に座って話しているシーン。




亜紀「(突然立ち上がって)帰る」


1人で防波堤の上を歩いて帰り始める亜紀。画面、俯瞰視点で二人を追う。


朔太郎「(あわてて追いかけながら)え?乗ってかないの?」


亜紀「だって、私んち君んちと逆だし」


朔太郎「じゃ、何で俺と一緒に乗ってきたんだよ」


亜紀「(立ち止まって朔太郎を振り返る)そんなの決まってるじゃない」


亜紀、防波堤から道路に飛び降りる。画面、亜紀のバストショット。


亜紀「(笑顔で)サクと話したかったから」




…何かもう、すべてがお約束通りじゃないですか!


(まあ、私もそんなに美少女ゲームに詳しい訳でもないので、こう言うと
本当のパソゲーオタクの方々からいろいろ批判が来るかもしれませんが)




少なくとも、こういう「特に理由もなく、でもなぜかいきなり何の
取り柄もない主人公の男に言い寄ってくる天真爛漫な美少女」って
いうモチーフ自体、お約束なんですよ。映画でも、ゲームでも。








少し前には篠原哲雄監督の「月とキャベツ」で真田麻垂美が、
比較的最近の例では、堤幸彦監督の「恋愛寫眞」で広末涼子が、
こんな感じの役を演じてましたね。


(「恋愛寫眞」については、2004年2月20日のニッキを参照してください)


(また、岩井俊二映画ではこの辺の描き方はもう少しナイーブで、ここまで
パターン化された女の子は出てきません。強いて言うなら「花とアリス」の
蒼井優ですが、彼女にしてもかなり細かい心理描写がなされているので、
ちょっとこの「天真爛漫」パターンに当てはめるのは無理があります)








普通は「こんなあまりにも男に都合のいい女の子、いる訳ないやん!!」
って思うし、そんなことは分かった上で、一つのファンタジーとして、
純愛映画好きは(そして美少女ゲー好きも?)、こういった物語を
受容していた訳です。




で、そんなファンタジーに涙を流す人(ほとんどの場合、男ですが)を
一番敬遠してたのが、他ならぬ「若い世代の」「女子」だったはず。
なぜに広末涼子はダメで、長澤まさみなら許されるのか?
なぜに実写ならよくて、(狭い意味での)2次元だと差別されるのか?







…ホント、そういった意味では私も「激怒」してしまったのですが、
少しゲームの話から外れて映画のレビューをしてみることにします。








別に「セカチュー」系純愛モノの系譜は今に始まったことではなく、
ずっと昔から一つのジャンルとして、一部の人々の間で受容されて
きたものです。「セカチュー」の監督である行定勲も、
「恋愛寫眞」の堤幸彦も、岩井俊二の下で助監督してた人だし、
その岩井は少女マンガにものすごく影響を受けてる人だし。




そういった中で醸成されてきた『なぜか主人公の前に突然現れた
天真爛漫な美少女との純愛が始まってしまう、けど最終的には
その少女は死んでしまう』系映画の、技術的な集大成が、
この「セカチュー」といえると思います。








ストーリーは、はっきり言ってひどいです。
『なぜか (〜中略〜) 純愛 (〜後略〜)』系映画のストーリーと
しては、駄作もいいところ。だって、いくらお約束の世界とは
いっても、展開があまりにも単純すぎるやろ。




例えば、前述の「恋愛寫眞」ではヒロインは親友に殺されてたし、
篠原哲雄監督の「月とキャベツ」では、ヒロイン(実は幽霊)は
天国の世界へと帰ってゆきました。美少女ゲー「AIR」のヒロインに
至っては「人を愛すると身体に激痛が走る不治の病」で死ぬという
ヒネりっぷり(ネタバレ失礼)。




…うーん。やっぱ今どき白血病でヒロイン殺す監督は、さすがにおらんぜよ。




まあ、このくらい単純な方が、『(前略) 純愛 (後略)』系映画の
入門編としてはいいのかもしれませんし、それを狙っての映画化
なのかもしれませんが。




あと、みんな言ってるけど、やっぱり柴崎コウはいらない。
彼女が出ることによって、現在の朔太郎が徹底的にダメ男に見えます。
どー考えても、彼女は「主演」ではないし。








でも、こんな感じで『(…)純愛(…)』系映画の中でもかなり
うすーい内容の本作品を最後まで見続けることができたのは、
行定監督の演出が、芸術的なまでに美しかったからです。




カメラワークや映像効果において、前述の岩井俊二に端を発する
『(…)純愛(…)』系映画のありとあらゆる技術を結集して、
泣きのツボを、完璧に押さえていたといえます。




もしもこれが伝統的な日本映画の手法=固定カメラ・長回し・無効果で
撮られてたら、私は間違いなく途中で止めてたと思います。正直言って。




ホント、今回この映画を観て一番感じたのは、
行定監督の泣かせテクニックのすごさでした。








まとめると、この「セカチュー」は、ストーリーは徹底的な駄作。
でも、その演出手法については、



「なぜか突然、何の取り柄もない主人公の前に現れた天真爛漫な
小悪魔系美少女との純愛が始まってしまう、そして古典的小道具を
使いつつ、またお約束状況におけるお約束セリフを駆使しつつ
その愛を育んでゆく、けど最終的にはその少女は死んでしまう」



系映画として、今までに培われてきた映像技術の粋を集めて
作られた作品であるということができると思います。








…とゆー訳で、おめでとうございます。
この映画で号泣している若い女性の皆さんは、美少女ゲーに
号泣している大きなお友達の皆さんと、同類認定されました(笑)。














4.15 fri.

JR埼京線・女性専用車両誕生記念ニッキ(笑)。






さて、ここで問題です。
「『電車の中で化粧をしてはいけない』という規範は、
なぜ規範として成立しているのか」



…これが正直、よく分からない。



例えば電車内での携帯電話は、視覚的認知は可能でありつつ、
共有することは不可能なコミュニケーション空間が出現して
いることに対する違和感から、「マナー違反」とされています。
これは何となく分かるのですが。



もちろん、化粧の粉を撒き散らすとか、すっごくきつい香水を
バラ撒いてたりするのであれば、それは迷惑行為になります。
でも、口紅塗るのがどうして「マナー違反」になるのか?
誰にも迷惑かけてないのに。





化粧をする=『視線を受ける』という意識の可視化な訳で、
その前/後を周囲に晒すということは、逆に化粧をする前の、
視線を意識しない無防備な「私」の姿をも可視化するということで、
その防衛意識の欠如に対して、周りは危なっかしさを覚えるのか。






…うーん、苦しい。
これだと「違和感」の正体を説明したことにならない。






「視線を意識する/しない」という二面性の存在そのものを
象徴的に可視化してしまうことが非規範的であるというならば、
それは要するに、


「そんな化粧の一部始終をオトコどもに見せたら、
私の化粧前の顔まで推測されちゃうでしょ!」


とか、


「そんな化粧前/途中のブッサイクな顔なんざ見たくもねえ」


といった意識が「電車内の化粧はやめましょう」という言葉で
マナー化されているということになってしまう訳ですか。






こっちの方がまだ分かりやすいけれど、これだと結局、
「車内で化粧をしてはいけない」という規範=女性の外見に対する
幻想を守るための規範、ということになってしまう訳ですね。



もっと言うなら、「女性は美しくあらねばならない」という規範の
マナー化ともいうことが可能です。



うーん、女性からの大量の反論メールが来そうな推論ではありますね…。






ちょっとあまりにも放置プレイ気味だったので、苦し紛れに
こんな内容ナッシングな雑文を晒してしまいました。
怒らないでね。特に女性ファンのミナサマ。









でも、女性「ファン」って…いるのか?そんなの(笑)。









どーでもいいけど、風味堂の新曲「楽園をめざして」良いですね。
沖縄ロケのMVには木村佳乃も出演(ファンらしい)。しかもそれが
「夏風味ゴーヤピス 新発売!」のCMになってるって設定。
はっきり言って、アホです(笑)。でも大好き。こういうの。









ちなみに今月の冒頭文は渡辺美里です。東京の失われゆく自然を
唄った歌。だけど自分の地元だって、川岸はコンクリで固められて、
ザリガニは獲れない。つくしも生えない。もちろんれんげ草も。



このコンクリートの下で 夢はまだ眠っているのか?
目覚めた朝に 全て跡形なく消えているの?

僕が生まれた 僕が育った 故郷(くに)もこの街も
忘れはしないよ いつも

(Tokyo Calling より)




ノスタルジー過多のような気もするけど、渡辺美里を聴いてる時点で、
既に古きよき時代(?)の郷愁にひたってますから…許して。春だし(笑)。









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