ひとりごと
〜2005.May〜


岸辺に立つ緑若く5月 電車のガラスは涼しげなスクリーン
真っ白に嵩張る雲の流れ映し 川を越えてく私鉄


(小沢健二 “夢が夢なら”より)



5.27 fri.

5月はオタク本の強化月間になりました。別に意図した訳では
ないのですが、なぜか、気づけば、いつの間にか。







今回、とりあえず語っときたい読了本はこの6冊です。


花沢健吾『ルサンチマン(1)〜(4)』(小学館 ビックコミックス)
本田透『電波男』(三才ブックス)
森岡正博『感じない男』(ちくま新書)




まず『ルサンチマン』ですが、ストーリーは普通におもしろいです。
『クラインの壷』meets『マトリックス』な感じ。オタクが持つ非モテの
ルサンチマンが仮想世界を作り出し、それが現実世界をも侵食して
しまうという設定はありきたりだけれど、それを補って余りある程の
力のあるストーリー展開です。







ただ、『電波男』とほぼ同時期にこのマンガを読んでしまったので、
頭の中が混乱しました。正直、今でもメダパニが解けていない状態です。







例えば、30代、印刷工場勤務の超キモメン男である主人公・拓郎が、
このままバーチャルギャルゲーの世界にどっぷりとハマってしまって
いいものか逡巡しているときに、同じ超キモメン男の友人から言われた
このセリフ。




「現実を見ろ!俺たちには仮想現実(バーチャル)しかないんだぞ!」




どうなんだろう。その切実さが、非オタクの自分には分からない。
むしろ、『げんしけん』の中で斑目が言ってたこのセリフの方が、
自分には何となくですが理解できるのです。




「オタクはなろうと思ってなるんじゃなくてさ、
 も 気がついたらなってるんだって」








『電波男』にも、オタクのルサンチマンは噴出しています。
でもオタクにとっての、本田氏の言うところの「恋愛資本主義」の
意味合いが、『ルサンチマン』と『電波男』では少し違うような
気がしました。




オタクの人って、恋愛資本主義の内部に「入れない」ことに憤り、
それに対する対抗軸/逃げ道として、オタクを「選んだ」のでしょうか。
自分のイメージではむしろ、恋愛資本主義に「入らなかった」人が、
「気がついたら(オタクに)なってた」のではないかと。




そしてオタクという、恋愛資本主義の価値観から外れたところで
独自の論理に従って生きるような、恋愛資本主義者にとっての
抵抗勢力になった後で、初めて自分の価値観を敵視する
恋愛資本主義内部の視線に気づくように、自分には思えるのです。




言い換えれば、オタクが感じる恋愛資本主義者に対するルサンチマンとは、
キモメンであるが故に「常に感じてきた憤りとしてあった」のではなく、
オタクになった後に「事後的に発見」されるものなのではないかと。




うーん。我ながらいろんな人に怒られそうな、危険なこと言ってるな…。




たぶん自分にとっての典型的オタク像は、『げんしけん』の笹原なんだと
思います。だからイケメン/キモメン(or モテ/非モテ)から離れた所にも、
やっぱりオタクとしてのルサンチマンとかアイデンティティの在り処は
あるんじゃないかと思ってしまうのですね。







でも、それを踏まえた上でなら、『電波男』で本田氏が爆発させた
ルサンチマンは、ものすごくよく分かるような気がします。




ちなみに『電波男』の内容はこんな感じ。
(amazonの「匿名のレビュアー」氏の書評より引用)


本書は、生身の女性よりも漫画やアニメの登場人物を好む人々が、
そのような志向を「おたく」として賎民視する価値観に対して、
「おたく」こそより純粋な形での愛情のあり方であり、常に金銭を
介在させなければ関係性が築けない現代日本の生身の人間同士の
恋愛こそ、資本主義に強く影響された不純な恋愛であるとし、
「生身の女性」至上主義への決別を宣言した、マニフェストの書である。





セカチューを初めとした純愛物語に「萌え」ておきながら、その一方で
オタク(的な趣味とか、コードを持つ人々)を、勝手に恋愛ヒエラルキーの
最下層に設定して憚らない恋愛資本主義者たちに対しては、私も強い憤りを
感じていますし、そのことはこのニッキの中でも何度も書いてきました。




むしろ「何故オタクの人たちはここまでコケにされて、何も言わないの
だろう」と、今まで不思議にすら思っていたので、本田氏のルサンチマンは、
(もちろん完全ではないけど)理解できます。




そして、前述の疑問も『電波男』によって少し解消されたように思います。
恋愛資本主義とは違う価値観で動いているんですよね。オタク界は。
創価学会に何を言われたところで、立正佼成会のアイデンティティが
揺らぐことはないし、いちいち反論する必要もないのと同じように。
(またそーゆー危険な例えを…)




でも、そうなのだとしたら、本田氏が強烈に(そして私も少々)抱いていた
ルサンチマンは、オタクの人たち全体にどの程度共有されているのか。
その辺りが今度は気になるところ。







何はともあれ、いま流行の「負け犬論」が、自らを「負け犬」としつつも、
電通にその全てをコントロールされている「恋愛資本主義」からは抜け出さず
(そうしないと作り上げてきたアイデンティティを全否定する ことになるので)、
逆にオタクを「負け犬以下」の存在とすることで、アイデンティティを保持する
戦略を採っていることを明らかにしていく過程は、明快で痛快。




そしてオタク文化こそ、金の流れに沿って愛が作られる「恋愛資本主義」に
搾取されることのない、独自の価値観で独自の幸福を追求する手段である、
という結論部に至っては、いや見事、というしかありません。







細かい議論ではいろいろとツッコミ処はあるけれど、ルサンチマンから
アジテーションへと至る展開はあまりにもスリリングで、そして面白い。
自分の中では、東浩紀『動物化するポストモダン』以来のオタク文化論の
名著になりました。







さて『電波男』のあとがきで、本田氏は自分が「負け犬女」や
「恋愛資本主義者」へのルサンチマンを抱え込むに至った経緯を、
赤裸々に告白しています。これらを物語化し背景化してしまうことの
是非は置いておくとして、今回改めて感じたのが、こういった
ある意味「性癖」ともとられかねない表現を語ることの難しさでした。








森岡正博『感じない男』は、その「難しさ」と真正面から対決した本です。




森岡氏は「オタクとは〜」「ロリコンとは〜」「そもそも男とは〜」etc...
という一般化を徹底的に避け、完全に一人称で「萌える私」を語ります。




その文体を本文中からいくつかピックアップしてみると、例えばこんな感じ。




「あるビルのショーウィンドウに、女子高生の制服が飾られているのを
発見したのだった。(…)すると、なにか、胸にすうっと風が入り込んで
くるような清涼感と、後ろめたいものを見てしまったようなゾクゾク感が、
私の体を包み込んだのであった」(p65-66)


「私はロリコンが分かるということ、すなわち私は少女に対して性的に
惹かれた経験があるということを、まずもって公然と認めなくてはならない」
(p95)


「そのころ、マスターベーションをするようになった。エッチなことを
想像したり、エッチな漫画を思い出したりしながら、マスターベーションを
するのだが、射精したあとに一気に興奮が冷め後悔の念がふつふつと
沸き起こってくるのだった」(p148)





私も似たような経験をしたことはあります。
ただ、それを言語化する際の一人称の使い方は、あくまで「私も」です。
そこには「(男はみんなそうだと思うんだけど)私も」という一般化が含意
されています。「私は」という言葉の使い方は、たぶん自分にはできません。




ましてや自分が大阪府立大の教授で、それもちくま新書向けに原稿を
書いてくれと言われたとして、「私」という一人称で性を語ることなど、
自分には絶対にできません。







もちろん、森岡氏の議論にも、納得できない点は多々あります。
しかし少なくとも、これは「私」を中心に展開した性哲学であるという
大前提を設定したことで、「それはあなただけの事例なのでは?」という
不毛な反論を押さえ込むことには成功していると思います。



(とりあえず「私=あなた」を事例としてまな板に載せ、その事例について
議論をしましょうというルールを、身体を張って提示している訳ですから)







オタクになること/オタクを語ること。
どちらにしても、思ってしまいました。




「自分に足りないのは覚悟だ」(『げんしけん』より)












5.6 fri.

ギンギラ太陽's 嘉穂劇場公演「南国から来た寒いヤツ」DVDを観る。




非・福岡人には何のこっちゃわからんと思いますが、
ギンギラ太陽'sとは、福岡を本拠地とする地方劇団です。
コンセプトは「非・福岡人が観ても何のこっちゃわからん演劇」(笑)




まず、この劇団の作品には、人間が一切出てきません。その代わりに
出てくるのが、福岡の様々な名物を擬人化した「かぶりものキャラ」。
このキャラクターが、現実とフィクションを織り交ぜつつ、
福岡を舞台に大暴れするのです。








例えば、これまでに登場した主なキャラを挙げてみると…


・ソラリアデビル(西鉄福岡駅の駅ビル「ソラリアビル」がモデル)
・マダム大丸(福岡マダムの御用達デパート「大丸」)
・ひよ子侍(実は福岡銘菓の「ひよ子」)
・スカイマーク(福岡の格安航空会社「スカイマークエアラインズ」)


などなど。




これらの「かぶりものキャラ」を軸に、『天神大決戦!』では、
福岡中心部・天神地区のデパート戦争が描かれました。
『福岡スカイウォーズ』では、福岡空港を舞台に各航空・鉄道会社間の
競争が、また『地下鉄軍団大逆襲』では、建設中の福岡地下鉄の新路線と
既存のバス路線との競争が、それぞれコミカルに演じられたそうです。




これらは「天神にデパートの出店が相次ぎ過当競争になっている」こと、
「福岡―東京路線をめぐり、各航空会社やJRとの間で激しい競争が
繰り広げられている」こと、「福岡市内の慢性的な渋滞とバス文化」の
ことなど、要するに地元に関する様々な話題を知っておかないと、
それこそ何のこっちゃわかりません。




今回の公演でも、カーテンコールで、劇団主宰の大塚ムネト氏は
「これからも、地元の皆さんにしか分からない作品を作っていきますので、
よろしくお願いします!」と、満面の笑みで宣言していました(笑)。








で、当然のことながら上演は福岡県内に限定されているので、
東京在住の私はこの劇団の作品に興味を持ちつつも、今まで観ることが
できずにいたのでした。それが、今回公演のDVDが通販で発売される、
ということで、早速ゲットしてみた訳です。








DVDに収録された公演は、「ひよ子侍」シリーズの第2弾。
時は幕末、世は平成。鹿児島・白くま城にさらわれた妹菓子のヒナ姫を
救うべく、ひよ子侍やチロル十円ベエ、なんばん往来、ぶらぶら家老、
(すべて福岡のお菓子の名前です)などが大活躍する、というお話でした。




笑いや涙を巧みに織り込みつつも、ストーリー自体は王道の時代劇モノ。
ところどころにテレビ時代劇のパロディも見られ、この人たちはホントに
パロディネタが好きなんやなー、と、吹き出してしまうこともしばしば。








でも、何よりおもしろかったのは、こんな劇団を世に送り出し、
興行的にも大成功させてしまう福岡という風土を実感したことでした。




自分には福岡・茨城・東京以外の地域のことは分からないけれど、
例えば茨城で「関東鉄道vsJRバスvsつくばエクスプレス」の競争を
題材にして「かぶりもの演劇」をやったとして、それに大爆笑できる人が
どのくらいいるでしょうか?




もしくは東京で、東京急行と東武鉄道のバトルを芝居にしたとして、
「東京ばなな」を主人公に2時間半の公演をしたとして、
どのくらいの人が飽きずに観てくれるでしょうか?








当たり前ですが、福岡人の多くは、豚骨ラーメンや明太子が大好きです。
「〜ばい」とか「〜ばってん」なんて方言も、普通に飛び交ってます。




でも、そんなある意味メジャーな福岡文化だけではなく、地元民にしか
分からないし関係のない、でも地域に密着したいろんな細かい物事に
対してまで、福岡人はものすごく愛着を持っているのかもしれない…。
この公演DVDを観ていたら、そんな気になってきてしまいました。








かくいう自分も、「ソラリアデビル」と「マダム・大丸」の戦いで、
あるいは「西鉄組」と「昭和組」の抗争で爆笑できるという自分の心性に、
そしてそこに福岡人としての連帯感を感じて嬉しくなってしまう
自分の心性に、良くも悪くも、福岡ナショナリズムを感じてしまいます。




その上、こうしてニッキにupしていること自体に、自分の福岡人としての
アイデンティティを確認したいという気持ちの表れを見てしまいます。








何だかんだいって、私は、やっぱり福岡という地域が好きで、
福岡に住んでいる人の妙な地元意識も好きで、
福岡人としてのアイデンティティを自分で勝手に作り上げてて、
福岡出身であることに、特別な感情をもってるんやなー。
そんなことを、改めて実感してしまったのでした。








…別に東京が嫌いなわけでもないんやけどね。
でも、この中途半端な東京指向も、実は福岡人の特徴だったりするのでした(笑)。








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