ラーメン文化論〜私がラーメンにハマる理由


私が本格的にラーメン食べ歩きを始めてから、もう4年以上経つ。
その間数え切れぬほどのラーメンに泣き、怒り、笑った。
友人はよく「何でラーメンなんかそんなに夢中になれるの?」と呆れ顔で言う。
当然だ。私だって酒飲みに「何でビールなんかにそんなに夢中になれるの?」と
よく言ってしまう。人は概して他人の嗜好を理解できないものである。

しかし、何故ラーメンに夢中になれるのか、と言う問いそのものに対しては、
私も未だはっきりとした解答は見出せずにいる。
何故ラーメンを食べるのか?これは私にとって永遠の命題なのだ。
ここでは無い知恵を絞って、単に身近な食べ物というだけの枠を越えた、
日本を、そして日本人を象徴する文化的存在としてのラーメンについて
考察してみようと思っている。



ラーメンは不思議な食べ物である。
例えば、カレーと比較してみて欲しい。
確かに店や商品によっての個性は存在している。ボンカレー甘口とジャワカレー辛口は
似て非なるものだし、カレーの本場であるインドへ行けば、
それこそ私達の常識では考えられないような個性的なカレーが
ごく日常的な風景として浸透しているに違いない。
しかし、考えてみていただきたい。
もしもカレーの定義が「ご飯の上に何かどろどろしたソースをかけたもの」であったとしたら。
その時は、ハヤシライスも、卵かけご飯も、すべてが「カレー」となってしまうのである。
当然、これは日本人にとっては受け入れがたいカテゴライズであろう。
一見バリエーションの豊富な料理であっても、そこには必ず目に見えない何らかの
カテゴリーが存在している。また、それがあるからこそ、カレーならば「カレー」としての
アイデンティティを保持することが可能となるのである。
では、「ラーメン」とはどのようなカテゴライズの上に成立し得るものなのか。
もっと言ってしまえば、ラーメンがラーメンたる所以は何か。
ここで、九州ラーメンと東京ラーメンを比較してみることにしよう。



九州ラーメンのスープは主に豚骨でダシをとる。豚骨をそのまま強火でボコボコと炊いて、
濃厚なうまみ成分を溶かしだすのである。
そのスープは白濁しており、表面にはうっすらと脂膜が浮かぶ。
味はこってりと濃厚な味わいで、しかしくどすぎることはなく、
適度に私たちの濃い味嗜好を満たしてくれる。
麺はストレートの細めん。慣れない関東人の中にはそうめんの麺と勘違いする者もいるが、
コシがありつつもしゃっきりとした細めんは、麺本来の味を堪能することができる。

それに対し、伝統的東京ラーメンのスープは、鶏がらが主である。
豚骨のように強火で沸騰させてはスープが濁り、あの澄んだ味わいは出ない。
そのため、店主は沸騰させないぎりぎりの火加減を保つために全力を注ぐ。
醤油本来のうまみが効いたそのスープはどこまでもあっさりとしており、
どこか昔懐かしい気分にさせてくれる。
麺は縮れめん。スープがよく絡むこの麺には、「いかにしてラーメンをおいしく食べるか」を
追求しつづけてきた先人達の知恵が凝縮されている。



さて、この二つを比較したとき、果たしてそこにある共通点は何か。
そう、もうお分かりであろう。ラーメンとは、その門の広さゆえにカテゴライズが不可能な、
だからこそ無限の可能性を隠し持った、料理界最後の秘境なのである。
関東には「油そば」というスープのないラーメンが存在する。
「つけ麺」タイプの新しいラーメンも生まれている。
ここへきて、もはや「ラーメンとは何か」という問いは意味を成さない。
各地方の地域性、そこに住む人々の気質、文化的背景、そういった諸々の条件の中、
私たち日本人はどのようにこの戦後を歩んできたのか、
それを食文化というもっとも身近にある文化的形態で表しているもの。
これこそが、私が追い続けている「ラーメン」というまさしく小宇宙なのである。



とはいえ、ラーメンはカレーと並んで、あまりにも手軽に食べられる国民食である。
私もラーメン好きが昂じてこのようなサイトを作るまでに至ってしまったが、
あくまでラーメンは「ふらっと立ち寄って」「するっと食べて」。これでいいのである。
そのとき、「あーうまかった」とつぶやくことができたとき、人はちょっとだけ幸せな気分になれる。
このサイトが、そんな何気ない幸せを手にする手助けになればと思う。





   そこに一杯のラーメンがある
   わくわくしながらわりばしを割って、ぼくはそれを口に運ぶ。
   隣でふうふうしていた君が、おいしいね、とぼくにほほえむ
   『しあわせ』なんて、このくらいでちょうどいいのかもね




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