ひとりごと
〜2006.April〜

咲き乱れた花を見上げては 寂しくないふりをしてた

(徳永英明「桜」より)



4.24 mon.

杉浦由美子『オタク女子研究 腐女子思想体系』原書房
紺條夏生『妄想少女 オタク系(1)』アクションコミックス
中島沙帆子『電脳やおい少女(1)』バンブーコミックス 3冊読了。




このことを話したら、女性の友人に「何でそんなに腐女子のことが
知りたいの?」と呆れた顔をされてしまったけれど、「何で?」って
聞かれても、正直、困る。




自分はゲームにもアニメにもそんなにハマっている訳ではないけど、
ある程度オタクとの親和性はあって、周りにオタク的な人がいたし、
オタクのいろんな文化を面白いなあと思ってきたし、そんな中で
オタクをめぐる言説も、とても興味を持って見てきました。




で、今まで「オタクをめぐる言説」といったときのオタクは主に
男だったんだけど、最近は女性のオタクをめぐる言説もぼちぼち
出てきたので、そうした言説が「いま、こうした形で、世に出てきた」
ことに、興味を覚えたと。自分としてはごく自然な流れなんよ(笑)。







で、まず杉浦氏の『オタク女子研究』ですが、正直これはひどい。
自分は「オタク女子」については何も知らないも同然だけど、
でもこの本に書いてあることが相当メチャクチャなのは分かる。


(この本に寄せられた批判については
まとめサイトもあるので、
こちらをご覧いただければと思います)




ツッコミたいところはいろいろあるけど一つだけ。
腐女子を「モテ / 非モテ」の軸で語るのはちょっとズレてないか?
特に「文化系女子=モテ / 腐女子=非モテ」という類型化は、
あまりにも杜撰すぎる。




文化系女子という言葉も、最近いろんな雑誌で言われるように
なってるけれど、あれはあくまで外から貼られたラベルであって、
文化系女子を自称している女子はごく少数のはず。
やおい好きの女子たちが、半ば自嘲気味に自分たちのことを
腐女子と呼ぶのとは、そもそも次元が違います。




そもそも筆者の文化系女子の定義自体が「モテるインテリ女子」に
なってて違和感全開です。前述の友人は、「文化系女子=乙女属性が
強い女子の総称」と説明していたけれど、そちらの方が、実感としては
とてもしっくりくる。そもそもモテを気にしている段階で、自己内向性を
一つの特徴とする「文化系」のカテゴリーからはズレとるやんけ。




そして、もしも「文化系女子=乙女属性」なんだとすると、
文化系女子と腐女子は、かなりかぶっているカテゴライズな訳で。
変な軸を持ち込んで、無理矢理切り分けること自体がナンセンス。




「文化系女子というラベルを貼られる、自称・腐女子」もかなりの
数がいるはずで、そこにモテ / 非モテは一切関係ないのです。
あくまで本人の趣味と属性、そしてそれが外からどう見えるか、
という話なんであって。







確かに『電波男』を代表例として、男オタクをめぐる言説は、
かなりの部分「モテ / 非モテ」と切り離せなかったのは事実ですが、
腐女子=非モテにしてしまう分析軸自体、男オタクの分析軸を
引きずりすぎているような気がするのは、私だけでしょうか?




でもたぶん、男オタクをめぐる言説だって、いろんな紆余曲折があって
現在のような(かなり学術的な議論にも耐え得るような)形になって
いったのでしょう。それに較べると、女性のオタクを分析的に記述する
試みって、まだまだ始まったばっかりなんだなー、と、改めて実感。







長くなりそうなので、残りの2冊については、また後日。
特に『妄想少女 オタク系』は、自分は『げんしけん』に続く
オタク(を描いた)マンガの傑作だと思っているので、語らせてね(笑)。







あ、あと、改めてこの本を読んで、「総受」の意味を理解しました。
なるほど、この本自体がある種の「総受」の具体化だった訳ですな。











4.4 tue.

皆さんお馴染み、ジャーナリストといえばこの方々。
自称・日本の良識、某A新聞です。




言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。
それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。





この「ジャーナリスト宣言」、自分にはこう聞こえて仕方ない。



(無知な大衆が操る) 言葉は感情的で、
(自分たちに向けられる批判は) 残酷で、
(最近は世論操作も難しくなってきたので) ときに無力だ。





それでも私たちは信じている。
(自分たちが一方的に発する)言葉のチカラを。





要するに、一般世論への影響力の低下に対する、
単なる「開き直り」にしか聞こえないんですけど…。







続いて、最近ちょっと影の薄い、某M新聞のコピーは




主張を押し付ける新聞は、もういらない。




彼らは「新聞は主張を押し付けるべきではない」という
主張を押し付けていることに気づかなかったんでしょうか?




ちなみに、ちょっとでも思考力のある人間ならば、
「主張のない報道」なんてモンは絶対に存在しないことは
容易に分かるはずですが、まあそれはお約束すぎるので
ここではあえてツッコみません。




おそらく、主張を気持ちいいくらい堂々とおっしゃる、
スヌーピーの某S新聞さんを意識したものなんやろけど…。
でもさすがにM新聞の4月からの新コピーには笑った。




無駄な議論なんて、ひとつもない。




「だからお願い!みなさんM新聞を読んで!! 」という、
M新聞の販促部隊の悲痛な叫びが聞こえてきそうです(笑)。







A社もA社、M社もM社なら、Y社もY社。



「小学4年生の10%以上が、家来を毛来と書き間違えている」



とのこと。




こういうデータは経時的に比較しないと意味がなくて、
ひょっとしたら30年前の小学生は80%が間違ってたかもしれない。
「現在の教育を改革しなければならない」という論説の根拠としては、
はなはだ不十分です。印象操作をするには十分ですが。




そもそも「書き間違えている」って現在進行形で書くと、ニュアンスと
しては「間違って覚えている」と受け取られやすいんだけど、
「テストで書き間違えた」のと「間違って覚えている」のはまったく別。




小学校4年生レベルで「け」と読むことの漢字は、「毛」「家」以外には
「気」「化」「仮」くらいで、いずれもあまり使わない読み方です。
つまり、けらいの「家」が思い浮かばなかった生徒が、とりあえず
思いつく漢字は、「毛」が圧倒的に多いであろうことが予想されます。




日本の学校では「分からないときも、とりあえず何か書いとこう!」
というテスト教育がなされています。つまり、小学4年生の10%以上が
「テストで書き間違えた」としても、実際に「家来」を「毛来」と
「間違って覚えていた」生徒は、ごく少数であった可能性が高い訳です。




こういうのって、コピーを書いた人が悪い訳ではないんだと思う。
おそらく、書いた人はこの可能性に「気づかなかった」だけで。


(気づいててわざとやったんだったら、ジャーナリズムの代表格
=新聞として失格ですね。いくら広告とはいえ。)




でもメディアやデータを通した現実って、
「自分が見たいように見える」モンやから。


(もちろん、自分は昨今の若者叩きブームに違和感を感じていたからこそ、
このY社の広告が印象操作であるかのように「見えてしまった」訳で。)




情報を発信する人だからこそ、その「見えてしまったもの」を
相対化する視点を忘れないでいてほしいと思うわけですよ。
そして、自分もその視点を忘れんようにせんといかんなと 思うわけですよ。







環境も(若干)変わって、気分一新、今年度の抱負でした。







ちなみに、われらがS新聞様のコピーは、「新聞を疑え」でしたね。
さすが「群れない、逃げない、The オンリーワン」の新聞です。
肉を切らせて骨を断つ、素晴らしいまでに捨て身の広告(笑)。






【追記】

その後調べてみたら、Y新聞の「毛来」データ元は、
「財団法人 総合初等教育研究所」という文科省の外郭団体がやった、
『教育漢字の読み・書きの習得に関する調査と研究 2003年調査』でした。
こちらでその調査結果概要が閲覧できます。




私が指摘した「経時的な変化」云々については、この報告書に、
昭和55年=1980年との比較データが掲載されていました。
調査方法が異なるみたいなので、単純に比較はできないのですが、
参考までにその結果を引用してみると…




第1回調査(昭和55年)と第3回調査(平成15年)の
平均正答率の推移



読み問題の平均正答率

昭和55年:小学4年―83.6%  全学年平均―87.7%
          ↓          ↓
平成15年:小学4年―89.7%  全学年平均―89.4%




書き問題の平均正答率

昭和55年:小学4年―56.0%  全学年平均―67.2%
          ↓          ↓
平成15年:小学4年―65.6%  全学年平均―75.7%





…自分で調べておきながら、一瞬、絶句してしまいました。
「どうする!日本の教育!?」とか言ってる場合じゃないって。
ナベツネさーん、「どうする!読売の広告!?」









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