ひとりごと
〜2006.March〜

この街で暮らした1年ちょっとの間
短いようで長いような日々でした

(東京60WATTS「池袋三丁目の夕日」より)



3.26 sun.

最終修了者の掲示を確認していなかったので、
卒業式当日、学校に行くまで(実は)ドキドキだったのですが、
何とか卒業することができました。



とはいえ自分はそのまま博士課程に進学するので、「卒業式」というよりは
就職していく同期たちの「送別会」みたいな感覚だったわけですが。



こうやって次々と社会へ出て行く友人たちの姿を見ていると、
自分がどんどんボトルネックの細い部分へとハマっていってるような
気がして、不安になったり、心配になったり、憂鬱になったり。



といっても、今さら引き返す訳にもいかないので、とりあえずは
目の前のことにがんばるしかないですね。
来週は学会で修論発表やってきます。泣かされてきます。







さて、修論を提出してからというもの、いろいろな方から
「読ませてほしい」というリクエストをいただいておりました。
本当にありがたいお申し出でございます。



現在、卒論・修論など、自分の書いた論文を掲載するサイトを
作成中ですが、今のところ完成はGW明けになる見込みです。



そこで、新サイト公開までの間、とりあえずYahoo! ブリーフケース上にて
修論本文を限定的にご覧いただけるようにいたしました。皆さんからの
ご意見・ご批判などをいただければ幸いです


<修論本文 pdfファイル (仮公開サイト)>
http://briefcase.yahoo.co.jp/web_shuron




なお、このYahoo! ブリーフケース上のファイルは、新サイトが
完成次第削除する予定ですので、ブックマークなどの際には
ご注意ください。現在、卒論の全文を公開している「web CCCS」も、
新サイトの公開と同時に移転する予定です。







卒論はともかく、修論は基本的にはアカデミック論文(のつもり)なので、
社会学やメディア研究についての知識が全く無い方は、おそらく読んでも
何のこっちゃ、だと思います。




でも、「ポピュラー文化」の研究である以上、やっぱりいろんな方に
自分の考えを知ってもらいたいと思うし、いろんな方から意見を
いただきたいと思っています。




「アカデミックな研究だから」という理由で、非・アカデミズム
=一般社会との回路を閉ざすようなことはしたくない、というのは
自分のポリシーでもあるので、「何のこっちゃ」という感想でも
構いません(それは自分の表現力の拙さが引き起こしたことですし)。
ぜひコメントをいただければと思います。







さて、以下は修論を書き終えての雑感。







指導教官にも言われたんだけど、果たして本当に「消費社会化」という
現象こそが、自分が明らかにしたい「社会」だったのか」どうか、
自分でも疑問が残っています。




普通、(社会学的な)歴史の研究は、ある集団やモノや現象や表象の
歴史的な経緯を追いながら、その当時の社会(なるもの)がいかなる
社会だったのか、を浮かび上がらせることを目的としています。
歴史を記述することが重要なのではなく、「歴史を通して見えてくる
社会」を記述することが、何よりも重要なのです。たぶん。




では、自分がFM放送からミュージックビデオ番組へと至るメディアの
歴史を通して浮かび上がらせた「社会」とは、いったいいかなる「社会」
だったのか。それを自分は終章で「消費社会」というキーワードを用いて
まとめた訳ですが、果たして本当にこのまとめでよかったのか。




「消費社会論」というジャンルが成立し得てしまうほどに、
消費社会をめぐる言説は数多く流通しているし、こうした
「社会」については、もはや語りつくされた感すらあります。




自分がやりたかったこととは、この語りつくされた「消費社会」を
確認することだったのか。自分が調べたメディアの歴史から、
もっと違った「社会」を語ることも、可能だったのではないのか。









歴史調査については、とりあえず今の自分にできることはやりました。
もちろん足りない部分が数多くあることは自覚していますが、
それでも最低限触れなければならないであろう事象については、
限られた時間の中で可能な限り、何とか調査・記述することができたの
ではないかと思っています。




でも、その調査から読み解くことのできる「社会」についての記述が、
決定的に弱い。様々な先生方から指摘を受けた、この論文の最大の
弱点ですし、自分でもまったくその通りだと思っています。




でも正直、この「FMからミュージックビデオへ」と至るメディア史が、
社会の中でいかなる機能を果たしていたのか、もしくはいかなる
社会的変化の象徴として起こったのか、自分は今でも見出すことが
出来ていないのです。




ものすごく重要な社会的変化の象徴だったという確信はあるのですが
(そうでなきゃ論文にする意味なんてない)、それを上手く言語化
できずにいるのです。









ぶっちゃけた話をすれば、終章で論じた「消費社会化」という物語は、
最後まで「社会」を見出すことが出来なかった自分が、苦し紛れに
付与した物語です。もちろん物語としての筋は(たぶん)通っているし、
この物語が完全に誤っているとは、思ってはいません。




でも、たぶん、自分が物語にしたかった「社会」とは、
「消費社会」ではない、似てはいるけれども何かが違う
「社会」なのではないか、そんな気がするのです。









現代(に至る)社会を語ろうとすると、必ず消費社会論に行き着いてしまう。
それはそれで面白いけれど、それに寄り添いつつもそこに収まりきれない、
消費社会の共犯者のような、表裏一体のような、でも相反するような
「社会」像を、自分は描きたくて、描こうとして、そして撥ね返されんだと
思います。




そしてこの、「消費社会の共犯者でありつつ相反するする社会」とは、
いったいいかなる「社会」なのか、という問いは、これからの
自分にとって、最大の問いであり続けることでしょう。









では、その「社会」を見出すためにはどうすればいいのか。
もう一度「FMとミュージックビデオのメディア史」という歴史の
世界に戻り、さらに詳細な調査を行いながら、探していけばいいのか。
それとも、まったく異なった「メディア史」との接点を模索する中から
見出していくべきなのか。




たぶんどちらも必要なんだろうけれど、そう器用にいろんなことを
やっていける人間でもないので…。ぜひ皆さんの考えをお聞かせ
いただければと思います。









それにしても、こんな研究やって何になるんだろう?
たぶん、何にもならないんだろう。




でも、いつかは「何か」になるんだろう。
というよりは、「何か」にしていかなきゃいけないんだろう。




自分は、この研究を「何に」していきたいんだろう…?









…そっか。ここから考えていくってのも、廻り道のようでいて、
実は一つのやり方なのかも。




自分が見出したいと思っている「何か(=社会)」とは、何なんだろう?




それを見出すことで、自分は今の自分(=社会)を、
どのように位置づけたいと思っているんだろう?












3.20 mon.

3月16日(木)〜17(金)、雪見温泉ツアーに行ってきました。
もちろん全行程18きっぷ、鈍行列車の旅です。
行程としては、長野を縦断して、新潟を横断して、
群馬を縦断して帰ってくる感じ(笑)。




昨年末に、ようやく念願のカメラ付携帯に機種変したので、
今回は初の写真付の旅行記に挑戦!
とはいえ、30万画素の古いモデルなので、画質が荒いのは
許してください。これでもツーカーとしては最新型なのです(笑)。




1日目


3:15 起床

あのー、昨日寝たの0時半なんですけど…。
この圧倒的な睡眠不足は、後々まで尾を引くことに。



4:00 自宅 発


4:27 JR中野駅 発


↓眠いんやけど、気分が高揚して眠れない。よくあるケースやけど。
↓天気はいまのところ良好。予報では昼過ぎから曇一時雨でした。
↓[BGM: bless /徳永英明]


5:15 高尾 着
5:16    発


5:52 大月 着
5:55    発


6:41 甲府 着
6:45    発


↓前々回の旅行(2005ネン9ガツ9カのニッキ参照)では見られなかった
↓八ヶ岳が、この日はきれいに見られました。ただ、このオンボロの
↓携帯カメラでは撮れそうになかったので、残念ながら撮影は断念。
↓[BGM: To All Tha Dreamers /Soul'd Out]


8:31 松本 着
8:39    発


↓夜行を使わずに、この時間に松本に到着できるのはすごい。
↓やればできるもんですね。眠いけど。
↓この間に、日本三大車窓の一つ、姥捨(おばすて)駅付近を通過。



↓やっぱ携帯カメラじゃよう分からんですな(笑)。



9:57 長野 着
10:02    発



↓いよいよこの旅行の目的の一つ、飯山線(*1)の完乗(*2)がスタート!
↓山に入るにつれ、だんだんと景色が白くなっていくのが楽しい。
↓[BGM: 大吟醸 /中島みゆき]


↓*1 飯山線【路線】:長野市から新潟県川口町に至る路線。長野県内は
↓千曲川に沿い、新潟県内に入ると千曲川から名を変えた信濃川に沿って
↓日本有数の豪雪地域を通る。

↓*2 完乗【鉄ヲタ】:ある路線を、始点から終点まで全線乗ること。



10:47 飯山 着
10:52 飯山駅前 発



↓バスに乗り換えて、この日最初の目的地、馬曲(まぐせ)温泉へ。
↓いろんな「絶景露天風呂ランキング」で、常に上位に入るこの温泉、
↓一度行ってみたかったのよ。



11:08 中村 着


さて、ここからは徒歩。温泉まではバス停から4キロって
書いてあったので、約1時間ほどの道のり。
が、その4キロが、延々と続く急な上り坂。がーーーん。




(「絶景露天」ってことは、当然ものすごく高いところにある訳で、
そこへ行くまでの道のりが上り坂になるのは当たり前なんやけど…。
なぜに事前に気づかなかったのか/笑)




ちなみに、温泉に向かう道は、こんな感じ。



はあ、バスもねえ、歩行者もねえ、自動車もそれほど走ってねえ…(笑)。




1時間ちょっと歩いて、ようやく馬曲温泉に到着。でも、苦労して
登ってきた甲斐はあって、眼下に広がる雪景色は確かに雄大。



他にお客さんがいなかったので、風呂からの景色を撮影。
盗撮でないよ(笑)。




帰り道、山腹にぽつんと佇む評判の蕎麦屋さん「健生庵 山愚」へ。
いやー、これが楽しみで、ここまで何も食べずに我慢してたのよ!



…が。





4月まで雪のため休業中…。




(ノД`)ウワーン




ただでさえしんどい下り坂、足取りの重さが2倍になりました…。




14:01 中村 発


14:17 飯山駅前 着



飯山市内に戻ってきて、とりあえず駅前の観光案内所で
「この時間で空いてる蕎麦屋はないか」聞いてみる。
(この辺は「富倉蕎麦」といって蕎麦がおいしいことで有名)
答えはもちろん「NO」でした。(´・ω・`)ショボーン





お腹が空いて死にそうだったので、とりあえずこの土地の郷土料理、
「笹寿司」を買って食す。寿司の中にクルミが数粒入っていて、
食べてると突然ガリッとくる。不思議な食感。
明日のことも考えて、もう一箱購入しておくことに。




「旅行中は、東京で食べられるものは食べない」がポリシーなので、
お腹は空いているけれど我慢。今回は珍しく食事付の宿を
予約しているので、それを楽しみに、ひたすら空腹に耐えることに。




15:46 飯山 発



↓さて、予定外の山登りで痛んだ足腰の筋肉をさすりながらも、
↓いよいよ本日のメインイベント。日本有数の豪雪地帯に突入です。
↓[BGM: OZ /100s]



16:06 戸狩野沢温泉 着
16:12        発









↓そして、みるみるうちに線路両側の雪の壁は高くなり…。



↓ついには雪の壁以外何も見えなくなる。
↓…え、何でこの壁、崩れてこないの?
↓雪に不慣れな九州人、怖いを通り越して楽しくなってきたよ(笑)。




18:01 越後川口 着
18:21      発




↓越後川口駅前の駐車場にて撮影。



↓うおー、あの電信柱の埋まり方って、どーゆーことよ?
↓分からんよ。何が起こったんだ。この町に(笑)。




19:13 越後湯沢 着


(九州人にとっては)すんごい衝撃的な体験を経て、本日のお宿に到着。
今日、朝起きてから笹寿司しか食べてなくて、飢え死にしそうです。
気合を入れて食堂へ行ったら、出てきたのがこのお食事。



写真じゃよく分からんやろけど、お刺身、天ぷら、そしてカキ鍋です。




え?刺身にカキ鍋…ですか?




…何で積雪2mの山奥まで来て、カキ鍋食わなあかんねん!!




いやね、美味しければいいんですよ。別にどこで何出されても。
でもね、案の定、不味かったのよ。つか、元々カキ食べられない
人間なのよ。自分。(カキに限らず貝類は全部ダメ)




空腹の極地、まずい飯でお腹を一杯にするよりは…と、
この後、茶有がとった行動とは――。






旅館の食事を3分の1ほど残し、近所の食堂でけんちん定食を食す。
うまい、うまいよ…。平凡なけんちん汁やけど、うますぎるよ…。




ちなみに、食後のデザートにはこんなものを食べてみました。



確かに注意して食べると、ときどき砕いたお米のボリッという感触が
伝わってくるけど、別にお米の味がする訳でもなく。
まあネタとしてはいいかな。ちょっと高いけど(200円)。




この日2度目の温泉に入って(越後湯沢温泉。お湯自体は
馬曲温泉よりもよかった)、午前0時頃、就寝。




そんなこんなで、1日目は終了。
怒涛の2日目はまた次回に。震えて待て!(笑)










3.22 wed.

2日目


7:15 起床

窓の外を見ると、すごい風雨。テレビをつけると
「新潟県全域に暴風警報」とのこと。
いいねー。文字通り、風雲急を告げる展開。
盛り上がってまいりましたよー(笑)。



7:45 ホテル 発


8:05 越後湯沢発


出発してすぐ、天候は暴風雪へ。
さて次はどうなる?とドキドキしながら電車に揺られてたら、
突然、線路上で列車が止まる。



車内アナウンス。「信号機故障のため、停車しております。
運転再開の見込みが立ち次第、またご案内いたします。」だって。



キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!



出発直後にいきなり来るとは思わんかったよー。
鈍行列車旅行名物「トラブルによる遅延」。線路上なので
外に出る訳にもいかず、とりあえずは時刻表と格闘しながら、
1分でも早い運転再開を祈るしかない。




結局、30分近く立ち往生した末に、ようやく列車は動き出しました。
終着駅での接続列車が待ってくれるかは、現段階では不明。
ちなみに止まっている間、車掌は接続列車に乗る予定の客の人数を
調べていました。うわ、人数の大小で決定されるんかー。厳しい。




↓結局、終着駅である水上駅には、27分遅れで到着。
↓そして到着間際になって、車掌が車内アナウンスで一言。



↓「この後の高崎行は、接続することができませんでした…」



↓couldn't構文になってるあたり、車掌の悔しさが滲み出ていますね(笑)。
↓仕方ないさ、キミのせいではないし…と思いつつも、この後の計画を
↓一から作り直さなければいけなくなったことに、ガックリ。




9:05 水上 着


国境の長いトンネルを抜けると雪も消えていた訳ですが、
そんなことには構いもせずに、ひたすら駅のベンチで時刻表と格闘。
1時間に1本とかそれ以下の世界なので、一つの列車を逃すと、
すべての計画が狂ってしまうのです。




必死の修正の末、何とか目的地を全部回りつつも、終電で東京へと
帰れる計画を再構築することに成功。このルートを作り上げたときが
気持ちいいのよ。クロスワードパズルのマス目が全部埋まった
ときのような快感(笑)。




9:35 水上 発



↓2日目のBGMは、100sの『OZ』をエンドレスリピート。
↓いや、今さらやけど、カッコいいですね。このバンド。
↓冷たく、悲しく、美しい曲調で、まさに雪国の旅行にピッタリ。



10:35 高崎 着
10:42    発


12:25 万座・鹿沢口 着
12:50 万座・鹿沢口駅 発


↓ここからはバスに乗り換えて、本日最初の目的地(に急遽なった)、
↓万座温泉を目指します。標高1800mの絶景露天。こちらも様々な
↓温泉ランキングで常に上位に入る、有名な温泉です。



↓駅を出たときは、天気は曇り。あんまり景色は見られないかも
↓しれんなー、などと心配していたのも束の間、標高が高くなるにつれ
↓雪が降り始め、あたりもみるみる白くなっていきます。



↓で、到着間際になるとこんな感じ。



↓真っ白で何がなんだか分からんやろけど、
↓とりあえず、見事なまでの猛吹雪です(笑)。



13:40 万座温泉バスターミナル 着


バス停から目的の温泉までは徒歩10分程度なのですが、
とにかくすごい吹雪で、前を向いて歩くことができません。
南極探検隊の隊員みたいな雪ダルマ状態になりながら、
必死の思いで温泉のあるホテルへ。




で、フロントで日帰り入浴したい旨を告げると、
案の定というか、非情な一言が返ってきました。




「本日、露天風呂は閉鎖しておりますがよろしいですか?」




まあ、予想はしてたんだけどね…。こんな状況で、まっ裸で
屋外なんかに出た日にゃ、風呂にたどり着く前に凍死します。




仕方ないので、内湯に浸かりながら、猛吹雪で何も見えない
外の景色を堪能することに。自分史上最高地点で、自分史上
最強の吹雪を見ながら、自分史上最熱(ホントに熱かった!)の
温泉に浸かる。この組み合わせの妙(笑)。




15:00 万座温泉バスターミナル 発


↓下りのバスは、上りよりもさらにサバイバルで、もはや視界は0に。
↓道路上で雪にハマって動けなくなってる一般車両も多数ある中で、
↓この時ほどバスの運転手さんがカッコよく見えたときはありません。
↓安全運転、しかも定時運行をありがとう。西武高原バスの皆さん。




↓朝から食事どころではなかったし、食事をゆっくりとれるような所も
↓なかったので、車内で昨日買った「笹寿司」の第2弾をお腹に入れる。



↓それにしても、今回はホント、食事に恵まれない旅行やな…。
↓あったかいもの、美味しいものが食べたいですよ。いやマジで。




15:44 万座・鹿沢口駅 着
15:51 万座・鹿沢口 発


↓ちなみに、山の上では死ぬか生きるかの猛吹雪だったのが、
↓下界に下りてくると、天気は嘘のように晴れやかになってました。



↓山の天気、恐るべし…。




16:04 長野原草津口 着
16:25 長野原草津口駅 発


↓再びバスに乗り換えて、この旅最後の目的地、草津温泉へ。
↓昨日の予定外の山登りで、足がパンパンになってたので、
↓それを治してもらいに。ついでに恋の病も…ね(笑)。




16:50 草津温泉 着



写真は草津の湯畑。白くなってるのは、吹雪じゃなくて、湯気です(笑)。




草津では「西の河原露天風呂」と「大滝乃湯」の2軒を回る。
風景があまりにも昔ながらの温泉地でビックリしたけど、
お湯の質はやっぱりよいですね。疲れた身体に染みわたりました。
心配していたお湯の熱さも、万座に較べればまだ優しい感じ。




ところで昨日もそうだったけど、本当に笹寿司だけでしのいでたので、
この時間になると空腹の極地に。ここでも美味しそうな蕎麦屋なんぞ
探してはみたものの、やっぱり「観光地に旨いもの無し」の言葉通り、
やってるのは温泉まんじゅうとか、そんなんばっか。




もちろん、カツ丼とかうどんとか、普通の食堂はあるのですが、
「東京で食べられるものは食べない」というポリシーは
変えたくなかったので、仕方なくこんなもので腹ごなしを。



ハイ、温泉たまごです。
味は…たまごの味でした(笑)。




19:50 草津温泉 発


↓さて、(たまごでの)栄養補給も済んで、あとは東京へ帰るだけ!(笑)



20:15 長野原草津口駅 着
20:32 長野原草津口 発


21:58 高崎 着
22:14    発


23:45 赤羽 着
23:50    発


23:56 池袋 着
24:01    発


24:10 新宿 着
24:16    発


↓さすが週末の丸の内線終電。朝のラッシュ並みの殺人的な混み具合。
↓さっきまで日本有数の過疎路線を走ってたことが嘘みたいです。




↓自分の場合、どこに出かけても新宿駅で乗り換えて帰ってくる場合が
↓多いので、最近では新宿駅に着くと「日常に帰ってきたなー」感を
↓覚えるようになってしまいました。
↓新宿で「帰ってきた感」を覚えるってどーなのよ、とは思いますが…。




24:23 新中野 着




以上、所要時間44時間30分、総移動距離733.4km、予算約2万円。
「残雪の飯山線と猛吹雪の万座温泉」ツアー体験記でした。







ちなみに、2日目は笹寿司と温泉たまごしか食べなかった訳ですが、
さすがに空腹に耐え切れず、高崎駅での16分の乗り換え時間に、
アレを食してしまいました。そう、高崎といえば、アレです。









JR高崎駅西口名物、アレです(笑)。






教訓:ローカル線に乗るときは、どこの温泉に入るか以上に、
どこで食べるかを、入念に調べておくべし。










3.10 fri.

昨日は久しぶりに大学関連の仕事もバイトも無い、完全オフの日でした。
天気もまあまあだし、花粉もそれほどでもないし、ふと思い立って
前々から気になってた町田のラーメン屋「雷文」に原付で向かうことに。
コンセプトは、「そうだ、町田いこう」(笑)。




考えてみれば、東京に来てから、あんまりツーリングをしていない。
昨年夏に原付に買い換える前のやつは、とても長距離に耐えられる
ような状態じゃなかったし、買い換えたら買い換えたでそんな時間は
なかったしで。




それでも、過去に原付で利根川を越えたことはあったので、
今回は南へ向かうことに。目指せ、初・原付多摩川越え!







と、今回はほぼ小田急線に沿って約1時間半の道のりを走ってきた
訳ですが、狛江とか、登戸とか、新百合ヶ丘とか、いわゆる
「郊外」の風景って、どうしてあんなにも変わらないんだろう。




多摩地区って基本的には起伏が激しいので、その土地ごとに地形は
違うし、当然それに合わせて風景も変化して当然なはずなのに、
なぜかどこを通っても、風景が同じに見える。もっといえば、
茨城とか福岡の国道沿いの風景とも、そんなに違いが分からない。




三浦展さんの説は、単純化が多すぎてあまり好きではないんだけど、
それでもこうやって、いわゆる「郊外」を実際に走ると、ホントに
日本が「ファスト風土」化してるような錯覚に陥りますね。







以前、この辺の小田急沿線に住んでる方と話す機会があったのですが、
このあたりに住んでる人は、自分たちの町のことを、口を揃えて
「田舎」だと言ってました。でも自分には、その感覚が分からなかった。
そもそも電車が通ってて、30分かそこらで新宿に出られるような町を、
「田舎」だなんて言わないし、言わせない(笑)。




自分にとっての「田舎」は、電車はもちろんマックもコンビニもなくて、
上下水道もなくて、半径1キロ以内に信号機が1台もないような、
要するに自分が少年時代を過ごした町のことだから。
それに較べれば、小田急沿線はもちろん、つくばだって立派な「都会」。







でも、この日小田急沿線を原付で爆走して、思ったのです。
自分はそんな町に住んでいたので、どうしても「農村」との対比で
「都会」を想定してしまう。けど、この辺の人たちにとっては、
「都会」と対比されるべき土地ってのは「郊外」なんじゃないやろか。




つまり、「都市>郊外>農村」というヒエラルキーを基準として、
自分の住む町とは(実際はどうであるかに関わらず)「田舎」であり、
それより(イメージの中で)上位に位置する町はすべて「都会」で
あるという、そんな観念が私たちには身体化されているのでは
ないかと。




言い換えれば、東京のド真ん中に住んでるごく少数の人々を除いて、
自分が「都会」に住んでると思ってる人なんて、この日本には
ほとんどいないのではないかと。




そして、そんな六本木ヒルズを頂点とする「都会/田舎」感覚こそが、
従来は農村であった町をムリヤリ規格化し、郊外化しようとする
原動力になっているのではないかと。


(でも、六本木ヒルズの住人たちは、ニューヨークと対比して
東京を「田舎」と呼ぶ可能性だってありますね。そう考えると、
本当の「都会」なんて場所は、実存しないのかもしれません。)




ひょっとしたら、都会に近い町が郊外化されていくんじゃなくて、
イメージとしての「都会」との対比の中で、それ以外の町は否応なく
郊外化を選択せざるを得ないのかもしれませんね。だって郊外化の
競争から降りたら、後は農村として開き直るしかないんだから。




でも「都会」自体はイメージとしてあるだけなので、どれだけ努力しても
郊外が「都会」になることは、事実上不可能です。極端な話、首都が
岐阜県の山奥に移転したとしても、そこは「都会」にはなれないのです。
都市にはなれても。




そして農村として開き直ることもできない郊外は、
絶対に辿りつけないゴールとしての「都会」を見上げつつ、
自らを自嘲気味に「田舎」と称するしかないのではないかと。







町田や登戸を「田舎」と呼んで憚らない地元の人たちの心性にこそ、
こうした強力に身体化された「都市/郊外/農村」ヒエラルキーの
根の深さを感じ取ることができるような気がした、そんな今回の
「東京郊外」ツーリングでした。







ちなみに、中野から町田の「雷文」までは、約1時間半。
さらに下って、大和市・高座渋谷の「中村屋」までは、そこから約40分。
帰りに寄った港北の「白河ラーメン」から中野までは、約1時間でした。
意外に近いのね。神奈川って。




一番旨かったのは「中村屋」。魚介系の風味が強いけど、最近ありがちな
(「麺屋武蔵」みたいな)、香味油でガツンとやる感じではなくて、優しく
ふわーっとダシの旨みが広がる感じ。北千住の「子竜」に近いかな。
魚介と鶏ガラの違いはあるけれど。




ラーメンの連食なんて久しぶりだったけど、楽しかった。
南町田のアウトレットに時間潰しに行ってみたら、好きなブランドが
1軒もなくて愕然としたり。悔しかったので、MK hommeの半袖の
シャツを1200円で購入して満足してみたり。
(こうしていつも安物を買って銭を失っていくのです…。)




たまにはよかろう。こんな休日も。











3.7 tue.

「修論終わったのをいいことに好き勝手に読み漁った、自分の研究とは
全く関係のない新書・文庫の類をレビューする特集」いよいよ完結編。
前回、前々回と不満ばかりを書き連ねてしまったので、今回くらいは
「おもしろかった!」と思えた新書をご紹介します。






本田由紀・内藤朝雄・後藤和智 『「ニート」って言うな!』光文社新書


今回の特集で紹介した全6冊の中で、最も「当たり」だった1冊。
問題なのは、ニートという「現象」なのではなくて、ニートをめぐる
「言説」なのだという、極めてメディア論的な考察を展開しています。




NEETの定義とは「働いておらず、学校にも行っておらず、求職活動も
していない15〜34歳の未婚者」という、ただそれだけのものであって、
いわゆる(社会不適応者としての)「引きこもり」とは全く別のものです。




しかしメディア上では、いつの間にかNEET=「働く意思のない若者」という
定義に置き換えられ、しかもそんな「無気力でどーしよーもない引きこもり」が
全国で80万人もいる、これは問題だ、という議論になっています。
でも、本当の問題はこの「意図的な論理のすり替え」の方にあるのではないか、
というのがこの本の主旨です。




80万人というのは「働く意思はあるけど働けない人(ex.病気療養中の人)」や
「そもそも何らかの理由で働く必要のない人(ex.資格試験のために勉強中の人)」
まで含んだ数字です。そんな「事実」を曲解してまで「引きこもりの増加」を
憂えることに、何の意味があるというのか。




つまり、現在のニートに対して「問題」とされていることは「最近の若者は…」
という、単なるオヤジ達の居酒屋の愚痴レベルのものでしかない訳です。
でもそんな言説が支持され、その「問題」を解消するための政策が提示されて
いくことに、筆者たちは強い危惧を表明しています。




本来は雇用政策として考えていくべき問題を(例えば過労で倒れて入院・退職
していく人を減らすだけで、ニートの数は激減します)、「若者の心の問題」、
そして「教育の問題」へとすり替えていくのは、雇用者および管理職である
自分たち(の世代)が取るべき責任から逃れるための方便でしかありません。




ある言説が流通するとき、そこには必ず「その言説を流通させた人」がいます。
そして「流通させた人」は、必ず何らかの意図をもってそれを行っています。
重要なのは言説の内容ではないのです。「いつ、誰が、何の目的で、
こうした言説を生産・流通させたのか」こそが、何より重要なのです。




そこに「存在している」問題が採り上げられるのではない。
(恣意的に)採り上げられることで、問題は問題として
「作り上げられていく」んだと思う。




特に第2章には論理の飛躍もあるし(こうしたメディア論的な考察は、
慎重にやらないとしばしば陰謀史観に陥ってしまう)、筆者たちの主張に
100%賛成している訳でもないけれど、それでも教育問題とそれらを取り巻く
「言説の問題」(=メディアの問題)を考える上で、欠かせない1冊です。








林香里『「冬ソナ」にハマッた私たち―純愛、涙、マスコミ…そして韓国』文春新書


「冬ソナブーム」の分析ではなく、「冬ソナ」にハマうおばさんたちの心情を、
アンケートを通して分析したもの。とはいえ、統計的な分析ではなく、
自由記述を丹念に読み込んだ言説分析がメインです。そういった意味では、
やはり(社会心理学ではなく)社会学的といえる、メディア研究の本。




amazonを見ると「この程度であれば、それこそ本書で引用されている四犬田・
小倉・切通ら各氏の的確かつ刺激的な分析にはとうてい及ばない」「著者が
これを「研究」だと思っているらしいところがまたイタい」と、厳しい書評が
投稿されていたので、自分はこれに反論する形で書評をしてみることにします。




別に「刺激的な分析」をすることは、メディア研究において言説分析を行う
目的ではありません。「なぜこのような言説が流通するに至ったか」について、
その社会的背景を、あくまで言説の内部から導き出すことを目的として、
言説分析は行われるのです。




だから、まとまった量の言説を集めなければそれはメディア研究(≒言説分析)と
しては成り立たないし、それをせずに言説の外側から言葉を投げたって、
それは薄っぺらい(個人的な)「批評」としかみなされません。それが「研究」の
難しいところです。




確かに筆者の主張に目新しさはないけれど、現象やその当事者に対する
価値判断を交えず(「批評」したい欲求を抑えて!)、膨大な言説を集め、
その中から淡々と「社会」を拾い上げ分析していくこの本は、新書で出された
メディア研究(≒言説分析)としては、十分にその水準を満たしていると思います。




…つか、「おわりに」で筆者は、この分析から見えてくるコミュニケーションの
問題についてごく簡単に言及してるけど、この人が本気でコミュニケーションに
関する分析をやり始たたら、普通の人には完全にコミュニケーション不可能な、
あっちの(純学術的な)世界へ旅立っていってしまうと思うのですが。


(何てったって、泣く子も眠る、あの超難解コミュニケーション分析ツール
「ルーマン語」を操ることのできるお方だ。この方は/笑)




こういう書き方って、書評(に対する反論)としては反則なのは分かってるけど、
(あくまで書評は書かれた内容に対してのみなされるべきだと、私も思います)
そんなに言われるほど「研究」としての価値がないとは思えないし、それを巡る
諸々の自覚が著者にないとも思えなかったので、ちょいとフォローしてみました。








本田透『萌える男』ちくま新書


『もてない男』『感じる男』『さみしい男』等に続く、
ちくま新書『男』シリーズ、最新刊にして真打登場(笑)。




内容は、基本的には『電波男』を踏襲しています。
電通とテレビ産業によって仕込まれ、完全に私たちの中に身体化されてしまった
(が故に、そこから抜け出すことが「反社会的」とされるまでに至ってしまった)
恋愛資本主義に対するルサンチマンが、全編にあふれた作品。




そしてその恋愛資本主義に違和感を持つ人々が作り上げた「理想郷」こそが
「萌え」の世界であり、その効能とはすなわち(恋愛資本主義下における
恋愛では得ることのできない)「癒し」である。したがって、この問題百出の
社会において、「萌え」を見出すことのできる男が非難されるいわれはない、
というのがだいたいの主旨。




「萌える男」こそが正しいのである!とアジるその文体は、『電波男』に較べると
穏やかですが(さすがに筑摩書房ですので…)、言ってる中身の過激さは変わって
いません。もちろん論理的にはハッキリ言って滅茶苦茶なのですが(笑)、
それも含めて、アジテーションとして秀逸な、読んでて痛快な作品です。




ただ一つだけ納得できないのが、「萌えは家族の復権をもたらす」という件。
「「家族の復権」を唱える保守主義者こそ「萌える男」である!」と言うことで、
逆説的に保守の方々を煽るのが目的なんだとしたらあまりにも面白いのですが、
(林道義あたりが「本田透君は廃業せよ!」って激昂しそう/笑)、
そうでないとしたら問題だ。




仮に「萌えが家族の復権につながる」「萌えない社会において家族は崩壊する」
としても、「だから萌えは正しい!」とどうして主張できるのか?
それを認めると、「(保守主義者の言うところの)家族の復権は正しい」ことを
暗に認めたことになるし、それでは(恋愛資本主義者でなくとも)女性の支持を
得ることはできないような気がする。




確かに「萌え」って、反フェミニズム的な思想ではあるんだけど、
ニ次元の女性に癒しを求める点なんかは、裏を返せば三次元の女性を
「男性を癒す役割(=労働力の再生産役割)」から解放する訳で、考えように
よっては三次元の女性を味方につけることもできると思うんやけどな…。




『電波男』に較べて、無理に論理性を加えようとした結果(筑摩書房ですので…)、
その破綻が楽しむことができないレベルにまで大きくなってしまったのが、
残念といえば残念な点ですね。変な強調や顔文字がない分、『電波男』よりも
読みやすかったのはプラスですが。




この辺は実際の「萌える男」の方々に意見を聞きたいところだなー。
彼らは本当に「家族の復権」なんてものを望んでいるんやろか?
「萌え」について、また違った角度からいろいろ考えさせられた1冊でした。








やっと全6冊のレビューが終わったー!!
他にも読んだ/読んでる本はいっぱいあるんやけど、長くなり過ぎたので、
今回の特集はこのくらいにしときます。次回の特集は未定。特集するかも未定。
つか、たぶん、いつも通りのヤマ・オチ・意味なしニッキに戻ると思われます。









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