ひとりごと
〜2004.September〜

横須賀線の最終が 車両基地で眠る頃
私も冷たい9月の海で 泣き疲れて眠りました
明日は会社を休みます

(クレイジーケンバンド「せぷてんばぁ」より)




9.30 thu.

ちょっと間があいたけれど、映画紹介の続き。今回は邦画編。






スウィング・ガールズ

「ウォーター・ボーイズ」の矢口史靖監督作品。
ふとしたきっかけでビッグ・バンド・ジャズに目覚めた
素人の女子高生たちの奮闘を、コミカルに描く。



基本的には、素人高校生がドタバタ劇を繰り返しながらも、一つの目標に
向かって突き進むという「ウォーター・ボーイズ」の路線をそのまま踏襲。
テンポが良く中だるみもないので、個人的には「ウォーター〜」よりも好き。



山形弁が少々わざとらしいような気がするのは、私がリアル東北弁になじみが
ないからなのか。でも、それを補ってあまりあるほどの女子高生たちの新鮮さ!
茶有的には、主人公(上野樹里)よりも関口さん(本仮屋ユイカ)に萌えです。



徒党を組んだときの女子軍団の強さ・無鉄砲さって、何となく分かるような気がする。
そんな激流のような女子パワーに圧倒されつつも、孤軍奮闘する黒一点・中村君に
激しく共感しました。でも何だかんだいって、楽しいんだよね、彼も。そんな環境が。
ラブコメチックな方向へ持っていかなかったのも、とてもリアルで好感度大。
一見ハーレム状態なんだけれど、やっぱそんな簡単にラブは生まれないのです。たぶん。



そんなこんなで、つい若き日の自分を思い出してみたり(一応、元ブラスバンド部)。
そして、あの頃からの時の流れの速さに愕然としてみたり。
もちろん、そんな個人的な感傷を抜きにしても、普通に楽しめる映画です。
このコミカル感だけは、日本映画でしか味わえない感覚だと思う。






ジョゼと虎と魚たち

「金髪の草原」の犬童一心監督作品。わがままな障害者の女の子・ジョゼ(池脇千鶴)と、
主人公の大学生(妻夫木聡)との恋愛を、淡々としたタッチで描く。



前評判が良かっただけに、正直がっかりな作品。
いわゆる「狂女」(差別的意図は無いです)にエロティシズムを見出す表現って、
日本においては古典的なんだけど、そんな古典的エロスを現代風に上手く昇華
できたかといえば、むしろ単なるステレオタイプで終わっている感が否めません。



ジョゼを障害者という設定にして、しかもそこにある種の精神的ネガティブイメージ
(彼女は学校に通っていない)を付与する以上、そこに表現上の意図がなければならず、
そしてそれは細心の注意を払って描かれなければならないのに、そのどちらも
全く感じられません。



障害者ドラマを「美しく感動的なもの」にする必要なんて、まったくないと思うけど
(むしろその感覚の方が差別思想へつながる危険性があると思う)、むしろその
「障害を乗り越える感動恋愛ストーリーでなければならない」という固定観念から
脱却したいあまり、結局は逆方向のステレオタイプに陥ってしまっているように思います。
せっかく池脇千鶴が身体張って…つーか脱いでまで演じてくれたのに。もったいない。






きょうのできごと

今話題の「ピカチュウ!」・・・・・・失礼、「セカチュー」でおなじみ行貞勲監督作品。
友人の大学院合格・引越しを祝うために集まった男女による、飲み会の様子を描く。



あまりにも普通の飲み会。ヤマもオチもイミも、まったく無し(笑)。
本当にどこにでもあるような飲み会の様子を、ただカメラに収めただけなのに、
どうしてこんなに楽しめるのだろう。



例えば、自分らがいつもやってる飲み会をそのまま映画化したとしても、たぶん、
脚本はほとんど変わらないでしょう。でも、その様子をそのままカメラに収めて、
そのまま時系列的に並べて編集しても、単に当事者向けのホームビデオが出来上がる
だけで、とても作品になどならないはず。それを一本のエンターテイメントとして
成立させてしまったところに、映像作家・行貞勲の力量を見たような気がします。



そんな「日常そのもの」と対照的なのが、テレビから流れてくるニュース映像。
壁に挟まって動けなくなった男だとか、浜辺に打ち上げられた巨大クジラだとか。
あまりにもバカバカしくて非現実的なんだけれども、それもやっぱり同時間的に
起こっている「きょうのできごと」(実はそのニュース番組のタイトル!(笑))であり、
そして彼らにとっては飲み会のネタ以外の何ものでもない訳です。



非日常すら包み込んでしまうようなありふれた日常を切り取るということ。
それは、逆に考えてみれば、非日常とは日常の中に入り込んでいるもの、と
いうことに気づくことのかもしれません。



考え出すと思考のループに陥ってしまうのですが、私は大好きでした。この映画。
「普通の日常」のエンターテイメント化に、感嘆するか、あくびをするかは、
見る人によってかなり違ってくるとは思いますが。



ちなみに、前出の「ジョゼと虎と魚たち」とキャスティングがかぶってますが、
別に妻夫木/池脇しばりという意図の下、この2作を続けて観た訳ではありません。
単なる偶然です。






他にも夏休み中に何本か観たけれど、とりあえず今回は新しめの3本をご紹介ってことで。











9.22 wed.

「ベストヒットUSA」で、Bowling for Soupの"1985"という曲が流れてました。
恥ずかしながら私は彼らを知らなかったのですが(イギリスのバンドらしい)、
そのMVがあまりにも素敵だったので、さっそく検索して調査。



そしたら、その歌詞がホントにすてき。



Springstein, Madonna
Way before Nirvana
There was U2, and Blondie
And music still on MTV
Her two kids, in high school
They tell her that she's uncool
But she's still preoccupied
With 1985



「あの頃はまだMTVに音楽が流れてたんだ」だって!



「彼女は今も1985年に生きてるのさ」だって!!(意訳失礼)



ステキすぎるうっっっ!!!(笑)






いーなー。ホントに楽しそう。
これが1985年をリアルタイムで経験したヒトたちの、偽らざる気持ちなんだろうなー。



MTV世代のナマの声として=(ある意味)一次資料として。
さっそく使わせていただきます(笑)。








9.17 fri.

一日の間にすること。本を一冊、映画を一本、食事を一食。
夏休みも終わりに近づいて、ようやく規則正しい生活ができるようになりました。
すべてにおいて、終了間際にやる気が出てくる。これが私の生きる道(笑)。



といふ訳で、今回は久しぶりに映画紹介なんぞ、一発、二発、三発。






「ラスト・サムライ」

アメリカ・インディアン討伐戦の英雄(トム・クルーズ)が、軍隊の近代化の必要に
迫られた明治政府に招かれ来日。そこで彼は日本で反政府勢力=最後のサムライに出会う。
その生き様に心を動かされた主人公は、やがて自らもサムライとして生きることを決意。
近代国家との勝てる見込みのない戦いに身を投じてゆく。



DVD特典の「監督が作品全編をいちいち解説してくれる」映像は必見。
細かいところでいろいろツッコミ処はあるけれど、大方すんなりと楽しめる作品に
なっているのは、表現レベル・ディテールのレベルではなくて、もっと根本的な
「思想」を理解しようとする監督の思いが伝わってくるからなのでしょう。



主人公の設定を「インディアン討伐戦」の英雄とし、そこに暴力的近代化を
進めようとする日本の状況を絡めたのも秀逸。異文化(すなわち思想)を
理解するとはいかなることかについて、近代化と帝国主義思想について、
そして自分が日本人であるということ(=世界にはアメリカ人がいて、
イラク人がいて、ネイティブアメリカンがいて、中国人がいて、チベットの
人々がいるということ)について、いろんなことを考えさせてくれる作品。



音楽がカッコいいなー、と思いながら観ていたら、最後のスタッフロールに
なって、ハンス・ジンマー(私が一番好きな映画音楽の作曲家)だったことが判明。
感動モノです。



ところでハリウッド(文化帝国主義の総本山!)でこの映画が作られたことに、
少なからず驚きを覚えたのですが、アメリカ国内ではどのように消費されたのか、
気になるところ。単なるオリエンタリズムとしか捉えられなかったのだとしたら、
既にその思考回路そのものが帝国主義化しているように思います。末期症状。






「ボウリング・フォー・コロンバイン」

「華氏911」のマイケル・ムーア監督作品。
コロンバイン高校で起こった銃乱射事件の検証を通して、
アメリカ銃社会が抱える問題を考えたドキュメンタリー。



テレビでたまたまやってたので観てみた。
個人的には楽しかった。でも、果たしてこの作品を「ドキュメンタリー」と
呼んでいいのかは微妙なところ。往年の松村を髣髴とさせるアポなし取材は、
アメリカ版・社会派電波少年な感じ。



客観性なんて微塵もなくて、むしろ伝えるべき自分の主張を明確に持った上で、
それを一番効果的に伝えるにはどうすればよいかを追求した結果、このスタイルに
なった感じがします。実際、編集・音楽・効果(アニメーション等)の使い方には、
かなりどぎついものがあります。



だからこそ「客観的でない」「偏っている」という批判は、批判になってない
気がする。むしろ、この作品のどの辺りが「弱い」のか。この作品以上に
「強い」反論をするにはどうすればいいのかを、批判派もそうでない人も、
考えなければならないと思います。メディアリテラシーの訓練に最適な一本。






「あの頃、ペニー・レインと」

2000年アメリカ。キャメロン・クロウ監督。1973年のアメリカを舞台に、
ふとしたきっかけでロックバンド全米ツアーの同行取材をすることになった少年。
追っかけの女の子との恋を交えつつ、ロック・スターの栄光と挫折を、
純粋な少年の目を通して描く。



これもたまたまテレビでやってたのを観た。
日テレの深夜枠(正しい映画の見方を教える市民の会)は、なかなか
いい作品をやります。オープニング・エンディングも共にシュールで○。



さて、この作品。映画としてもまずまず面白い(陳腐といえば陳腐。でも味がある)の
ですが、それ以上に、1970年代=ロックンロールがロックという巨大産業に
なろうとしていた時代の空気が、よく伝わってきます。



主人公の少年を、ローリング・ストーン誌の記者として同行取材させたのも、
面白い設定。ファンという消費者と、アーティスト(およびレコード会社)という
生産者をつなぐ架け橋としての音楽雑誌記者という存在。
ファン心理と、音楽産業のルールと、記者としてのプロ意識との間で
苦悩する少年の姿が、音楽業界そのものを象徴しているかのように見えます。



まだミュージックビデオがなかった時代。
それは、ロックスターの「アウラ」がまだ存在していた時代なのかもしれず。
2004年に生きる自分には、そんな時代が逆に新鮮だったのかもしれません。
そんなことをつらつら考えながら、ほんわかと見ることのできる
ロードムービー(?)です。ポピュラー音楽研究やってる人は、資料として必見。
それ以外の人も、観て損はないかと。






あとハリー・ポッター3作品も、この夏休み中にまとめて観た。
ハーマイオニーは本当に可愛いです(笑)。






邦画もいろいろ観てるけど、長くなってきたので、それは次の機会に。
それにしても、昨夜の「ニュー・デザイン・パラダイス(第22回)」
「デザインしないデザイン」をコンセプトに掲げるデザイナー、
ナガオカケンメイ氏に対し、ナビゲーターの谷原章介氏も
「果たしてかたちをデザインすることだけがデザインなのか?」と、
デザインについてかなり本質的な問いを口にしてました。






いいのか?こんなフジの深夜番組ごときにデザイン論の本質を語らせといて。
研究者は何をやってる!?(笑)











9.9 thu.

茶有にとって、今年の夏休みの自主課題の一つに、
「デザインについて考える」というものがありました。



今年の夏は、偶然にも、デザインをやってる美大生の人たちと関わる機会が
複数あって、そういった人たちと話しているうちに、少し考えんといかんな、と
思うようになってしまった訳です。メディア論について考えようとすれば、
デザインの問題は避けては通れない問題やし。



あんまりまとまってないけれど、今日は現段階で考えていること、
自分にとっての問題関心を、ゆるゆると。長々と。






1.なぜデザイン論なのか?

自分が現在勉強しているのは「メディア論」と呼ばれる学問領域です。
メディア論とは、情報やメッセージを伝達する「媒介」をメディアとして捉え、
メッセージの内容と同時に、その媒介のあり方が人間とどのように
関わりあっているのかについて考える学問です。




もちろん、メディア論はあまりに「学際的な」領域なので、
100人いれば100通りのメディア論の定義があるであろうことは
想像に難くありません。上に挙げたのは、あくまで茶有が考える
「メディア論」像です。




メディアといえば、まず思い浮かぶのが新聞やテレビ、雑誌などのいわゆる
「マスメディア」ですが、メディアが「情報やメッセージを伝達する媒介」で
あるとするならば、その範囲は特にマスメディアに限定されません。
ネットやメール、電話、手紙、映画、音楽だって、当然メディアです。




さらに言えば、カローラという車を見て、私達はトヨタの経営戦略について
思いをめぐらせたりします。日本の技術水準の高さを感じ取るかもしれないし、
大気汚染の問題について考えるかもしれません。単純に「カッコいい」「ダサイ」と
思うかもしれません。これらだってすべて、カローラという車が、ある種のメッセージを
私達に送った結果、起こった反応といえます。カローラも一つの「メディア」なのです。




そう考えると、デザインとは、モノの「メディア性」が最も分かりやすい形で
表象される場である、ということができます。例えば、カローラのデザインには、
トヨタからのメッセージが凝縮されてい(ると私達は考え)ます。
反論覚悟で言い切ってしまうとすれば、デザインとはメッセージそのものなのです。




メディア論を勉強しようとする人間が、常にデザインに対して
敏感でいなければならないのは、こういった理由によります。







2.「デザインのデザイン」について考える

今年の夏休みは、デザイナーを志す美大生と一緒に仕事をする機会が何度かありました。
北は青森から南は福岡まで。専門もグラフィックデザイン、インダストリアルデザイン、
建築デザイン、情報デザインと様々です。




考えてみれば、筑波大学には芸術専門学群があり、しかも自分もその中で映像制作なんぞ
やってた関係で、その頃からデザイン専攻の学生とはよく話をしていました。
その後も印刷会社に就職してみたり、大学院でメディア研究をしてみたりと、
自分の周りには常にデザイナー(およびその卵)がいた気がします。




まあ、類が友を呼んだというよりは、自分が飛んで火に入った、と
いう方が正しいのですが(笑)。




自分にとって、デザイナーというのは憧れの職業の一つです。
自分はメディアについてあーでもないこーでもないと語るだけしかできない訳ですが、
デザイナーは高い問題意識を持ちつつ、それを形にして世に送り出すことのできる能力を
持っており、しかもそれでお金を得ることのできる、正真正銘のプロです。




美術が極端に苦手で、通知表は良くて「3」、悪い時には「2」をもらうことも
しばしばだったという、個人的経験から来るコンプレックスも大きいのですが(笑)、
ともかく、私にとってデザイナーとは、明晰な頭脳とプロとしての技術をもった、
尊敬に値する人たちであったったことは間違いありません。




しかし、今回デザイナーの卵たちと話してて、どうしても気になったことがありました。
それは、彼(女)らが「商業主義」という言葉に非常に敏感だったこと、
そして彼(女)らのほとんどが、「商業主義」に対して否定的であったことです。




彼(女)らの言い分をものすごく大雑把にまとめると、
「デザイナーもアーティストであり、決して商業主義に回収されるものではない」
といった感じになるようです。




確かにデザイン/アートの境界線は、デザイン概念が成立した当初からの命題でした。
川添登によれば、デザインという言葉自体、そもそも応用芸術における造形の方法を
表した言葉であり、現在用いられている意味で使われるようになったのは、
20世紀に入り、大量生産/消費のシステムが確立して以降とのことです。




ただし、厳密にいえば、デザインという概念が初めて議論の俎上に上がったのは、
19世紀イギリスで機械生産を批判し、手によるモノ作りを思想として主張した
W.モリスの頃と考えられます。彼の思想はデザインにとどまらず、その後の左翼運動、
すなわち社会の近代化に対する批判運動に大きな影響を与えました。




しかしその後は、W.モリスの運動をその原点としつつも「合理化・規格化」を
追求するドイツ・バウハウスの考え方が、ヨーロッパのみならず、アメリカや
日本にまで非常に強い影響力を持つようになります。そして彼らの思想こそが、
現代にまで通じるモダンデザインの基礎を築き上げることになるのです。




そう考えると、思想の問題としてデザインという概念を捉えようとしたとき、
商業主義への批判はそもそもの出発点であり、デザインという考え方自体、
その対立軸の中で揺れ動いてきたという歴史性を、否定することはできません。




にも関わらず、私が商業主義を否定するデザイナー候補生の言葉にひっかかったのは
何故なのか。それはおそらく、彼(女)らの「語り方」にあるような気がします。




つまり「デザイナーはアーティストであり、必ずしも商業主義には回収されない」という
主張からは、資本に拠らない芸術を最も素晴らしいものとし、資本との関わり合いが
強くなるほどその位置付けが低くなっていく「芸術ヒエラルキー」とでも呼ぶべき価値観を、
彼(女)らは無自覚的に持ち合わせているのではないか、という気がしてならないのです。




現代デザインはその性格上、資本とのつながりをゼロにすることは絶対にできません。
にもかかわらず、彼(女)らは経済領域から切り離すため「芸術ヒエラルキー」の中に
デザインを敢えて位置付けることで、結果として自らアートとの間に「越えられない壁」を
築き上げてしまっているように、私には見えます。




しかし、否定すべき商業主義から逃れることはできず、自ら築いたアートの壁を
越えることもできず、常に芸術ヒエラルキーの下部に甘んじていなければ
ならないその行き場のなさが、「デザイナー=アーティスト」という考え方へ
結びついているのだとしたら、これほど不毛な悪循環もありません。




これはひょっとしたら、「美術大学」や「芸術学部」のなかでデザインを
教えるという、現在の大学システムの方に問題があるのかもしれません。
茶有は美大教育に関しては完全に門外漢なので、推測することしかできませんが。




とはいえ、これからデザイナーとして社会に出ようとする人たちが、デザインの
商業主義性を否定し、自らをその価値を低下させるようなヒエラルキーの中に
組み込むという、身動きの取れない悪循環へ嵌っていくのは、彼(女)らにとっても、
社会(企業)にとっても、あまり意味のあることとは思えません。




私には、「いかにして商品を売るか」というデザインの至上命題をクリアしつつも、
同時に「モノを売る」以外でデザインにできることとは何かを模索していくような、
そんな「デザインのデザイン」について考えていく方が、よほどスマートで、
かつ重要なことなのではないかと思えてならないのです。




そんなことを考えていたら、グラフィックデザイナーの原研哉氏が、
その名もズバリ「デザインのデザイン」という本の中で、非常に高い問題意識と、
その実践について議論を展開していました。デザイナーを志す人、
メディア論・デザイン論を勉強している人には、刺激的な本だと思います。




デザイナーを志す人へのメディアリテラシー教育を、どのように行っていくか。
「デザインのデザイン」的な問題意識を、学生の間にどのように展開させていくか。




デザイナー候補生とは、将来の「メッセージの作り手」に他なりません。
だからこそ、メディア研究(特にメディアリテラシー研究)に携わる者として、
真剣に考えなければならない問題のように思います。







3.「新領域」の「デザイン」を「評価する」ということ

日本にはグッドデザイン賞なる、奇妙なデザイン評価システムが存在します。
Gマークの愛称で知られるこの制度は、1950年代、日本企業によるデザイン盗用が
国際問題になった際、デザインに対する意識を高める目的で導入されました。




グッドデザイン賞にはいくつかの部門(ユニット)があります。
詳しい分類はこちらを見てもらえば分かるのですが、この中に
一風変わった部門として「新領域デザイン」というのがあります。




昨年度の受賞作を見てみると、「循環型・建物再生型賃貸システム」(安田不動産)、
「携帯電話キャリアによるデザイン開発プロジェクト」(au)、
「都市再生のための領域横断的プロジェクト」(アールプロジェクト)、
「ロボット教材を用いた創造性教育の総合的取り組み」(芝浦工大)なんてものまで。




つまり、モノの形やその機能のデザイン性を見るのではなく、ビジネスモデルや
プロジェクト、そしてそこに込められた思想のデザインを評価しようとするのが、
この「新領域デザイン」部門であると考えられます。




しかし審査員コメントを見ると分かりますが、この部門は「新領域」なだけあって、
あらゆる分野からあらゆる発想のデザインが応募されています。審査員もデザイナーから
科学技術ジャーナリストまで様々で、作品を評価する基準も非常に曖昧です。




出品企業にしてみれば、Gマークを取るということはすなわち上からのお墨付きを
もらうということで、売上げに大きく関わってくる問題です。審査料も安くはないですし、
そんな曖昧な基準で判断されるのはたまらん、というのが本音かもしれません。




ただ、出品企業の方々には同情しますが、私はまた違った意味で、
この新領域デザインに可能性を感じています。




新領域デザインに対する評価基準が曖昧、というのは、裏を返せば、
グラフィック・建築など他のデザイン領域には、確固とした評価基準が
存在している、ということを意味します。でも「デザイン」を「評価」する
ことなんて、そもそも可能なのでしょうか?




柏木博は、Gマークが持つ「文化主義性」、すなわち「無知な大衆には
良いデザインも悪いデザインも区別がつかないから、上が教育してやろう」
というその啓蒙性について論じています。




前項で述べたように、デザインはメディアとして人間の生活を強力に
規定する力を持っています。国が「グッドデザイン」を選定するという制度は、
国がデザインを通して国民を特定の生活様式へと誘導しようとするような、
少なくとも制度の開始当初、そういった意図があったであろう可能性を、
否定することはできません。




しかし、私たちが映画を観るとき、音楽を聴くときと同様、どんなデザインに
快/不快を感じるかなんて、それこそ本人の「感性」によって異なるはずです。
したがって評価基準が曖昧なのも、デザインにおいては当然なことのはず。
逆に確固とした評価基準が存在することの方が、何らかの意図の下で恣意的に
設定された可能性があるという意味で、実は危険なことのような気がしてなりません。




Gマーク制度が、非常に曖昧な基準で、新領域デザインを評価する。
これはそもそも「デザインを評価する」ことの疑わしさ、
評価の非自明性を象徴しているといえるのではないでしょうか。




そして、Gマーク制度(そして日本のデザイン政策)の疑わしさについて、
制度内部から声をあげるような人たちが少しくらいいても、
それはむしろ健全なことのではないでしょうか。




もちろん、その新領域デザインが持つアウトローな役割を、審査員やスタッフが
自覚しない限り、単なる不公平な評価システムの域を出ない訳ですが、
個人的にはこの新領域デザイン、もう少し温かく見守ってみたいと思っています。







4.参考文献

自分はデザイン論については思いっきり素人なので、
今回のニッキを書くにあたり、次の三冊を参考にしました。



川添登「デザインとは何か」1971年 角川書店
かなり抽象的な話ですが、デザイン哲学の歴史について論じられています。



柏木博「デザイン戦略 欲望はつくられる」1987年 講談社
時代性を象徴してか、消費社会論的な文脈からデザイン戦略について論じています。
19以降のモダンデザインの歴史について、分かりやすくまとめられています。



原研哉「デザインのデザイン」2003年 岩波書店
デザインとは一体いかなる行為なのか。その問題提起と実践について、
グラフィックデザイナーである著者が自らの経験を通して論じています。






冒頭でも述べたように、メディア論とデザイン論は切っても切れない関係にあります。
自分の研究領域の本質に関わる部分でもあるし、もう少しきちんと考えていくつもりです。
ある程度まとまったら、論考の形でCCCSのページにでもupしたいと思います。











9.1 wed.

タカギ君がついに危篤状態に・・・。
もう無理な延命治療はしないから、データ移管するまでは
がんばってください。お願いします。



一応こんなこともあろうかと、実家で使わなくなってた
古いノートPCを予備として用意していたので、何とかこうして
ネット接続して更新することも出来ているわけですが、
いや、この富士通マシンの使いにくいことといったら!



高木産業は既にPC事業から撤退してるし。
もうタカギ君には(2世も含めて)会えないのね・・・オイオイ・・・。



Dellにすべきか、hpにすべきか。いずれにしても、次の相棒を
早急に探したいと思います。もちろん、富士通とSHARPとSONYだけは
絶対に買いませんが。






で、今日の本題。






SONYハンディカムのCMに出てるペ・ヨンジュンが、
どうしても小林よしのりに見えてしまうのって、
私だけですか?









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