ひとりごと
〜2004.April〜

だまされたと思って、いちど来てみてください。
きっとだまされた自分に気づくはず。

大貫卓也「豊島園 史上最低の遊園地」より




4.30 fri.

約2週間ぶりの更新となりました。
ラーメンズ小林賢太郎プロデュース公演に、サンボマスターのレコ発ライブと、
日記ネタ満載の2週間でありながらも、押し寄せる課題が更新を許さず…
とゆう状況でございました。はい、言い訳です。スンマセン。



GWに入り、山のような課題も一段落ついたので、
(学校休みなんだから当たり前)
これでようやく8日の学会の準備に取り掛かることができるわ…と、
ひとまずホッとしているところでございます。



…って、もうあと1週間しかないやんけ。



そう。何を間違ったか、某先生より、某学会の研究例会で、
卒論と修論計画の発表をしてみないかという話をいただいてしまい、
そして何を血迷ったかそれを快諾してしまい、
結果として今、死にかけておる訳でございます。言い訳その二。



研究例会の詳しいお知らせについては、茶有の本名で
google検索してみて下さい。会場では、コテンパンにいじめられて
半泣き状態の茶有を観察することができます。たぶん。
入場無料なので、一緒にいじめたい方は、ぜひご参加ください(笑)。






さて今回は、4月も終わりだし、学会準備で本格的に仮死状態になる前に、
ずっとずっと気になっていたことについて言わせて下さい。






すなわち、今だからこそ、イラク3邦人人質事件について。






議論の焦点は、やっぱり「自己責任論」に集まっているようですが、
茶有の立場は、基本的には「責任追及せよ」側にあります。

(思想の右/左という単純な問題に回収されたくないので言っておくと、
今回のイラク派兵自体については、私は反対しています)






ただ、今回の事件に関して、茶有が一番気になっているのは、
「なぜ3邦人はバッシングを受けなければならなかったのか?」と、
「なぜ知識人の多くは3人を擁護し、バッシングを批判したのか」の
二点に他なりません。



例えば、擁護派の一つの反論として「もし自衛隊員が拉致(もしくは殺害)
されても、それは自己責任になるのか?」というものがあります。



なる訳がありません。彼らはあくまで「仕事」として行っているのですから。
例えば、現地勤務している日本企業の社員が誘拐されたとしても、
それは会社の命令で行っている訳で、会社の責任を追及する声は上がっても、
本人の自己責任を追及する声なんて上がるはずがありません。

(例えそれが本人の自己志願で派遣された社員であったとしても)






では、今回拉致された3邦人がイラクで行っていたことは「仕事」とは
見なされないのでしょうか。今回の根本問題は、実はこの点にあるような
気がしています。



すなわち、一般「市民」は、こういった「市民運動」を決して意義ある
仕事としては認識しておらず、むしろ胡散臭さを感じているのではないかと、
どうしても思えてしまうのです。

(もちろん「自分がそう感じているから」というのが一番大きな理由なのですが)






つまり今回のバッシングは、3邦人の自己責任追及のためというよりは、
「市民運動家」に対する一般「市民」の不信感の現れなのではないかと。


(そもそも、日本に「市民」なんて存在しないのではないか、という
議論もありますし、私もその通りだと思いますが、それはまた別の論点です)


(ネット上で「自作自演論」が盛り上がっていたとき、主流となっていた意見は
「今井氏・高遠氏の二人が首謀で、郡山氏(写真家)はそれに巻き込まれた」
というものでした。「市民運動家」への疑念の体現化に思えます)






普通、冷静に考えれば、一般「市民」による「市民活動家」バッシングの裏には
何があるのか、なんてこと速攻で見抜けるはずで、もしも批判派に対して有効な
反論を行おうとするなら、擁護派は、日本政府の愚かな政治判断をあげつらう前に、
「市民運動」の有効性についてこそ語らなければなりませんでした。



それを見抜くことができず(見抜いてたけど何も言えなかったのか?)、
批判派をただ議論が感情的だ、といって批判する擁護派の理論こそ、
実は相手を観察する冷静さを失っていたとしか思えません。






一般「市民」は、別に天下国家のことを考えて3人を批判していた訳ではなく、
もっと身近な問題として(「活動家って、どうやってメシ食ってんだ?」)、
つまり自分の素朴かつ感情的な問題として3人に疑念を投げかけた訳ですから、
それに対する「感情的だ」という反論は、実は全く反論になっていません。
「感情的で何が悪い」と開き直られて、それで議論は終わります。



「市民運動家」も、マスコミも、知識人も、自分の言葉が一般「市民」に
届かないとき、無意識的に相手を「無知で社会問題に関心がない大衆」と
みなしてはいないでしょうか。そして彼らの素朴な感情を、「感情的だ」という
反論にもなっていない反論で切り捨てていないでしょうか。






一般「市民」にもそれぞれの生活がある訳で。そして必死に日々の暮らしを
送る中で、社会問題に関してもそれぞれの意見を持っている訳で。



そんな市民の皆さんは、「(本人は無自覚的だが)あるイデオロギーに沿って」
「自分の生活より社会問題を優先し」「自分の社会的正義を信じて疑わない」
市民運動家やマスコミや知識人による「正義の押し付け」に対し、今回ついに
堪忍袋の緒を切ったのではないでしょうか。






個々の運動の内容に対して皮肉を言っているのではなく、
運動家が本当に社会を変える運動を起こしたいと思うのであれば、
「大衆」が運動に対してどういうイメージを持っているのか、と
いうことを自己反省する必要があるのでは、と思うのです。






「言葉が届かない」んじゃない。
「届く言葉を持っていない」だけなんだと思う。
自戒の意味もこめて。






これまでこの問題については、いろんな疑念を持ちつつも、
ネット上での発言は控えてきました。
もちろん、事実関係が不明確だったというのもあるのですが、
何より、最大の理由は、茶有の日和見主義的な態度にあります。



事件発生時から積極的な議論を展開してきた人にとっては、
この態度は許せないものに思えるかもしれません。
その点について、批判はそのまま受け止めます。
これが一般「市民」の感覚なんだ、という、言い訳めいた反論はしません。



…と言ってること自体が実は、自分の言い訳めいた反論だったりするのですが。









ところで、茶有の本名でgoogle検索すると、静岡でジャズバンドを
やってらっしゃるコントラバス奏者の方が出てきます。
あまりにも珍しい名字なので、茶有と勘違いしてる人もいるようですが、
この方は同姓同名の別人です。



つか、ウチの親がこれを見て茶有と勘違いしたらしく、ある日突然、
「あんた静岡でバンドやってんの?」って電話がかかってきて、
自分は???となったり(笑)。



覚えとこーぜ。自分の子供の現住所くらい(笑)。









4.14 wed.

【西武鉄道は】フジファブリック メジャーデビュー!【不正許さぬ!】



…99%の人はワケわかんないんだろーなー。このタイトル(笑)。
どーしても知りたい方は、某23時名物の老ニュースキャスターをして
「便所の落書き」と言わしめた巨大掲示板群の「社会学板」を
参照して下され。






はい、そーゆー訳で、当サイト御用達バンド、フジファブリック、
メジャーデビューいたしました。
果たしてメジャーシーンでいつまで生き残れるか、には興味ないので、
とりあえず(インディーズでいいので)消えないで欲しいと思います。



デビューシングル「桜の季節」も、GS昭和歌謡系ギターロック=フジファブ節
全開のステキな曲になってます。ちなみに、プレデビュー盤の限定5000枚は
既に完売だとか。これから大物になってプレミアつかないかなー(笑)。






さて昨日、新宿のライブハウス「LOFT」の移転5周年記念ライブに
フジファブとゲントウキが出るということで、行ってまいりました。
出演者は、音速ライン、ゲントウキ、オーノキヨフミ、
フジファブリック、そしてHermann H.& The Pacemakers。



ちょいとマイナーなJ-POPを聴いている人なら、このメンツ、
知名度といい、売上げといい、明らかに

Hermann>>>>>>>>>>その他大勢

なのは分かっていただけるのではないかと思います。
当然、ライブの順番もHermann H.& The pacemakersがトリ。



なのですが、最後から2番目の出演だったフジファブリックの演奏が
終わると、会場に異変が…。
そう。それまで身動きが取りづらいくらい満員だった会場の客が、
主役の登場を待たずして、ぞろぞろと帰り始めたのでした。



茶有も驚いたのですが、それ以上に驚いたのはそこに残るHermannの ファン。
なぜ客が帰っているのか分からず、その状況にざわめきます。
まあ普通に考えれば、客のほとんどはHermannを観に来てる、と
考えても仕方のない出演者陣なので…。



結局Hermannの登場前に、3分の1程度の客が帰ってしまいました。
Hermannファン、事態が飲み込めず、あっけにとられてます。
ちなみに私はお金がもったいないので、最後まで残りました。
「フジ何とか?誰それ?」とタカをくくっていた(であろう)
Hermannファンに、ざまーみろ、と心の中で思いつつ。






念のため断っておきますが、音楽の好き嫌いは別として、
Hermann H.&The Pacemakersのパフォーマンスは、
他の出場者に較べて圧倒的に盛り上がってました。



私もHermannのライブは初めてだったのですが、いや、楽しかった。
フジファブとかは(数は多くても)客がおとなしいので、
あーゆー縦ノリはできないのよ。
個人的にはそのくらい盛り上がりたいのですが。






Say Hello to Max Weber!は、フジファブリックを応援していますが、
Hermann H.& The Pacemakersも応援しています。











4.8 thu.

えっと、とりあえず、無事、入院いたしました。
入るなり、そのあまりのカリキュラムの大変さに、軽く絶望(笑)。
コレは本腰入れて「お勉強」しないと…。修論以前の問題だわ。






それにしても、院の先輩や同期と話していると、自分のやってる
(やろうとしてる)研究が、本気で分からなくなってきます。



現段階で考えていることは、先日立ち上げたweb CCCS
「『メディアとしてのミュージックビデオ』試論」として
まとめてはみたものの、読んでお分かりのように、
実は何ひとつとしてまとまっていないのが現状です。






ミュージックビデオって、まず何より「広告」であるはずなのですが、
そもそも「広告」というメディアは「新聞」のように実態としては
存在しておらず、常に「新聞広告」「テレビCM」のように、
ある(実体を持った)メディアに寄生することで初めて成立を許される、
非常に領域横断的なメディアな訳です。



従って、ミュージックビデオを広告論として考えようとすると、
テキスト、グラフィック、映像、音楽と、あらゆる方面から
その「広告性」について論じなければならない、という問題が発生します。



そこに「試論」で論じたような「そもそも広告とは何なのか?」問題や、
節合表現といった要素を絡めると、もうどこから解きほぐせばいいものやら。
当に、あれは何、ナニはアレ状態になるのです。
確かに、お金なんかはちょっとでいいなんて思ってませんが(笑)。






テクスト分析、すなわち個々の映像が何を表象しているのか、に
焦点を当てて分析れば、少しは具体的な道が見えてくるであろうことは
分かってはいるのですが(実際にそうして研究をしている人はいます)、
自分はもっと根本的な問題、「そもそもミュージックビデオとは
いかなるメディアなのか」について考えたいのです。



でも、それをやろうとすると、先述の通り、広告論、映像表現論、音楽論と
ありとあらゆるコトをやらなければならず、しかもテクスト分析から
完全に逃れることも、絶対にできない訳で。






泣き言ばかり言って、要するに何が一番いいたいのかというと、
ぶっちゃけ「仲間が欲しい」ってことなんですわ。






先日、あるところで偶然知り合ったふら氏も、アプローチは違えど
やはりミュージックビデオ研究に意欲を持っていて、二人で熱く語り合って
しまったのですが、これだけDVDが世に出回っている現在、同じ関心を
持っていない人がいない訳がない。



そういえば、院試の日、自分の前に面接受けてた人も、ミュージックビデオの
分析をやろうとしてました(順番を待ってるとき計画書がちょっとだけ見えた)。
確か成城の学生さんだったと思います。これを見たら連絡ください(笑)。






もちろん、アプローチはそれぞれのもので構いません。というよりは、
どのような接近可能性があるのか、を議論できるだけでも、
相当有意義なものになるのではないでしょうか。



このサイト上の宣伝効果については、はなはだ疑問なのですが、
それでもgoogleなんかでたまたま見つけてここに来てくださった
関東周辺の方で、「ミュージックビデオ研究」に興味を持っている方
(絶望的なまでに厳しい条件やな…)、研究会、やりませう。



えっと、詳しくはtoncotsu@hotmail.comまで。
参加特典は、中野周辺のとっておきのラーメン屋情報で、何とか(笑)。









そーいえば、スパイク・ジョーンズ、クリス・カニンガム、
ミシェル・ゴンドリーといった、人気MVクリエイターの作品を
パッケージングしたDVD「Directors Label」が、3月5日に発売されてました。



初回限定の3本セットは既に完売。発売元も予想していなかった程の
売れ行きだとか。しまったー。ウチとしたことが。出遅れた。






ちなみに初回版買い逃した悔しさのあまり…という訳ではないのですが、
今ワタクシの部屋に流れているMVは、HOUND DOG "BRIDGE"。
一度観たら、忘れたいのに二度と忘れられない、80年代日本における
MVの最高傑作です。たぶん。






わかった。研究会参加特典として、このDVDをみんなで観るってのは。
レア映像ゲットだぜ(笑)。








4.2 fri.

…ホントは4月1日にドカーンとこの冒頭文で始めるつもりだったのに。
web CCCS立ち上げ作業で疲れ果てた結果、一日遅れに。あーあ。






何はともあれ、sociologyコーナー改め、web CCCS、ようやくオープンしました。
今となっては見るのも恥ずかしい卒論(謙遜ではなく本気で)と、
最近書いた論文、というよりエッセイ、という、大層な名前付けたわりには
何とも貧弱なコンテンツですが、このページの充実度は、これからの茶有の
お勉強度に比例するってことで。温かく見守ってやってください。



…って、こんなこと書いて自分に勉強圧力をかけてみる(笑)。



ちなみにCCCSとは、その昔、イギリスのバーミンガム大学に
Centre of Contemporaly Cultural Stadiesという、
ポピュラー文化研究の拠点みたいな研究所があって、
略してCCCSと呼ばれてたところから勝手に拝借してきました。



但し、茶有自身は、CCCSとはもちろん無関係ですし、そもそも
Cultural Studiesとも少々違ったアプローチを取ってる…つもり。
この辺は実際の論文から判断していただければ。興味のある方は。









さて、お勉強話はこのくらいにして、岩井俊二監督最新作
「花とアリス」観てまいりました。



前作「リリイ・シュシュのすべて」が、おそらく自分史上最大の
衝撃作だったのに較べると、とても小さくまとまった感じ。
良い意味でも、悪い意味でも。



ホント、この人ほど日常をファンタジーに変えるのが
上手い監督はいませんわ、と改めて実感させられました。
好き嫌いだとは思うけど、私は、大好き。この純粋ファンタジー世界(笑)。



ストーリーとしては、「宮本センパイ命!の恋する乙女」ハナ、
「いつもハナを振り回しているおてんば娘」で
「その明るさの一方、人に見せない部分では、結構苦労人タイプ」のアリス、
そして「存在しない恋と、存在しなかった恋のはざまで苦悩する」宮本、の
三人による、三角関係ファンタジーコメディ。
(人物紹介は公式サイトより抜粋)


まず難点から挙げるとするなら、長いです。この作品。(実際は2時間15分)
「リリイ」が、そのダラダラとした長さを逆にリアルな日常へ
転化させていたのに対して、こちらはあくまでファンタジー作品なので、
長さによって観客は中途半端に現実に引き戻されてしまう感じがします。



スカスカの何気ない日常を、ファンタジーとして、
しかも「充実感のある」作品として提示した作品では、
秀作中編「四月物語」(67分)が既にあるわけで。
で、どうしてもそれと比較すると、今回の「花とアリス」は
充実感の点で及ばないかなと思うわけです。









とはいえ、ここまでコメディ色を全面に打ち出した(ように見えた)
岩井映画は、今までになかったと思います。
Fried Dragon Fishとも少し毛色が違うし。
手塚高校、藤子高校、水木駅、野比田駅、花屋ぴゅんぴゅん丸、
クライマックス近くで窓の外に揺れる巨大鉄腕アトム風船…などなど。



私はわりと小ネタにクスクス笑いを抑えていたのですが、それに対して
館内が静まり返っていたのは、どうやら世代差によることが判明。



掲示板上では「一人で観てるオジサンが怖い」という若者と、
「お前は『ぴゅんぴゅん丸』で笑えるのか?」という年輩(?)世代の
論争が勃発してました。自分がぴゅんぴゅん丸で笑ってしまう
「年輩世代」に入ってしまうらしいことに、愕然。
(でも確かに「ぴゅんぴゅん丸」は相当上の世代かも…。自分も観てはいないし。)



もちろん、百合作品という観点から観ても、面白いのではないかとは
思います。但し、最近流行った「牡丹と薔薇」「マリみて」等に
較べると、「花と〜」は一応女子高校生の初恋(もちろん男子との)が
メインテーマなので、かなり屈折した、分かりにくい百合属性の
ように感じられますが。






…別にそんなに百合作品が好き、という訳ではないのですが。
つか、何でこんなに百合属性にこだわってんだ?私は(笑)。









さて、突然ですが、フリーター(失業者)茶有のつれづれニッキは、今回で終了です。
来週からは、「やっつけ大学院生茶有のドーンといってみよう!」が
ついに始まります。乞うご期待!









…そんなコト言ってるからオジサン世代に入れられるんだっつーの(笑)。









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