ひとりごと
〜2002.November〜

あれこれと思い出をたどったら
いつの日もひとりではなかったと
今更乍ら我侭な私に、唇噛んでいます

(山口百恵“秋桜”より)



11.30 sat.


最近、暗い話かしょーもないネタのどちらかしか書いてない気がするので、
たまには社会派ネタを。
一応、このサイトのウリは、ラーメンと社会学の消費社会論的文化融合なので。




・・・そーだったのか、とゆーツッコミは置いといて。




最近テレビを観てないので分からないのですが、でも週刊誌の吊り広告は
毎日見ているので分かるのですが、とりあえず、今でもやっぱりワイドショーは
北朝鮮の拉致被害者関係のものでいっぱいのご様子。


いろいろ条件はあるにせよ、彼らを北朝鮮へ返すべきではない、とゆーのは
基本的にどのメディアもまとまっている感じです。


あのー、それを言うなら、つい数十年前、全国紙使って日本中から人をかき集め、
「この世の楽園」北朝鮮へ送り込んだ各メディア(特に某A社)は、読者・視聴者の全員と、
何より実際に北へ渡ってしまった人々に、凄まじいまでの「謝罪と反省の意」を示す
必要があると思うのですが。


もちろん、言葉でどんなに謝っても認めてはくれない彼らのこと。
国家賠償規模の補償金も付けてくれるのは、当然ですよね。久米さん。筑紫さん。






さて、何が言いたいのかというと、
「拉致被害者をこのまま日本に永住させるのは、本当に正しいことなのか?」といふこと。






もちろん、現段階で「日本に永住したい」と言っている方に対しては、
それが実現するよう日本政府も周りの人も全力でサポートすべきでしょう。


気になるのは、日本(良)>北朝鮮(悪)という図式は共通認識なのか?という点。
もっと言えば、日本に永住したとして、彼らは本当に幸せな生活ができるのか?という点です。


そりゃ、私たちから見れば、日本の方が断然住み良い国に決まってます。
物は豊かだし、おいしいラーメンもあるし。
マツタケがなかなか食べられないのは痛いところかも知れないけど。


でも、彼らにとってはどうなのでしょう。20年以上に渡って北での生活を余儀なくされ、
それでも必死に適応し、家族も持ち(持たされたにしても)、ここまでやってきた被害者たち。


新興宗教信者が、家族の説得に応じて脱会したものの、すぐに戻っていってしまったというのは
よくある話ですが、考えてみれば、結構当たり前なのかも知れません。
すでに本人と家族の間には、埋められぬ価値観の違いが成立してしまっていたとしたら。
自分と全く価値観の違う世界で生きていく苦痛に比べれば、ヘッドギア付けて
一生を生きていくことくらい、何でもないことなのかも知れない訳です。






彼らは日本に永住させるべきだ、といっている人は、
「誰にとっても日本は北朝鮮より住みやすい国だ」という
何の根拠もない<日本人としての価値観>を、無理矢理彼らに
押し付けていることに気づいていません。






まして、「家族みんなで永住帰国」なんて話になると複雑度7割増です。
北の子供たちは、日本は「鬼畜の住む国」であると徹底的に教え込まれています。
北の中ではそれなりに良い暮らしをしていた(であろう)子供たちが、
いきなり言葉も通じぬ敵国での生活を強制され、
挙句の果てには、自分の生まれた国が「テロ国家」であると洗脳される。


親は皆、子の幸せを何よりも第一に考えると言います。
ならば、この選択肢が果たして子にとって一番幸せな選択肢なのか。
少なくとも、それを決めるのは私たちではないはず。


例えば、同じ「日本=悪の枢軸」教育を行っているという意味では、
韓国に「移住」させるよう取引する、というのも一つの手でしょう。
逆に北朝鮮での安全な生活を保証する手段を、北に返す条件として提示するのも
ありかもしれません(日本にそれだけの気概があれば、の話ですが)。








いずれにしても、日本に永住帰国するのが一番の幸せだ、という分かりやすい論理が、
あまりにも一面的な<日本人の立場>に偏っているという点は、間違いないでしょう。
普段は、機会さえあれば日本叩きに余念がないあの方々までもが・・・ね。









社会学の云々何て言っておきながら、全然関係ない話をしてしまいました。
自分にとっては、社会学って、もっと現実離れした、思考世界の中で遊ぶ学問なので。








前言撤回します。やっぱり、このサイトの売り文句は
「ラーメンと朝日バッシングのメディアコミュニケーション的文化節合サイト」にします。
今さら宣言されなくても知ってるよ、とゆー方が大半でしょうけど。








11.22 fri.




週末の夜なので、とりあえずネット喫茶には来てみたものの、
ネタがないので本日は休講。







・・・と、思ったけど、一発ギャグだけ言わせて。



「隣の家に、囲いができたんだって」「へえー」



「隣の家に、塀ができたんだって」「ふーん」



「隣の家の前に、犬のフンがあるんだって」「お前のだろ」










・・・やっぱり、先週から脳ミソ腐ったままのようなので、休講ね(笑)。








11.15 fri.


昔の人はよく言ったもので、1月は逝くと申しました。



2月は逃げる。



3月は去る。



4月は尻拭い。



5月はGO!GO!7188。



6月はロックマン6。



7月は木の実ナナ私設応援団、骨肉の内部抗争。



8月はチャゲ&石川優子「深夜のホテルで“二人のアイランド”!!」



9月はモーリス・ホワイトTOUR2002 東村山市小市民会館特別追加公演。



10月はモーゼ氏主催、岩手県立吉里吉里海岸海水浴場「海開き」



11月の夜のお供といえば「東京イイ店ヤレる店」



12月は東野純直12万人ライブin渚園〜鰻はネットリ父ウットリ〜










11月も半ばを過ぎて、月日が経つのは本当に早いもんだなーって
言いたかっただけです。ホントにそれだけ。








・・・飲めない人間に無理に飲ませると、脳がバフンウニになるのよ。こんな感じで(笑)。









11.10 san.


晃一が自転車好きになったのは、いつからだっただろう。


九州の山奥に住んでいた高校の頃は、最寄り駅までの片道7キロを、
毎日自転車で爆走していた。


学校は高台の上にあったが、校舎へと至る傾斜角9%の斜面までも、
晃一は降りることなく最後までこぎ続けていたため、
一部の女子生徒からは「世界のナカノ」と呼ばれていた。
本家中野氏のフィールドであった久留米市が近かったこと以上に、
晃一自身の頭頂部にその所以はあったのかも知れない。




でも、あの頃は自転車は「足」だった。
走るのが「特別な楽しみ」になったのは、一体いつからだったろう。




日曜日の神宮外苑。21段の変速機は、最重ギヤに固定されたままである。




別に目的があってきたわけではなかった。
「外苑」なる言葉に、日当たりの良いなだらかな時空間をイメージして、
何となく銀座線を途中下車してみた。
すると、そこに無料のレンタサイクルと、外周を回る専用コースがあった。
晃一が現在に至るまでの経緯を、簡単に言えば、こういうことになる。




大学4年間は、自転車ではなくてバイクだった。
45km/hも出せばエンジンが悲鳴を上げる、中古の原付バイク。
それでも、晃一は狂ったようにスロットルを握り締め続けた。
あのころの晃一に必要なのは、何よりも、距離だった。




昔の晃一に必要なのは、「足」としての自転車だった。
今、自分にとって、自転車とは何なのだろう。
必要なのは、何なのだろう。




自転車が「足」だった頃、晃一は自分の自転車を
「つばめ号」と呼んでいた。
車両自体のスピードは遅かったが、その時、彼は間違いなく運転士だった。
車掌であり、パーサーだった。




「つばめ号」はよく停まった。信号停車があまりにも多かった。
晃一は、律儀にもその都度車内にアナウンスをした。
「信号が変わりますまで、いましばらくお待ちください」




バイクに乗り始めたとき、晃一はそのマシンに名前をつけなかった。
「フレッシュひたち」にでもしようかとも思ったのだが、
晃一自身の中で、その名前が定着することはなかった。
マシンではない。走り、そのものが、自転車とは違っていたのだ。もちろん電車とも。




サイクリングコース内には、一ヶ所だけ必ず停まらなければならないポイントがある。
歩行者用の横断歩道があるのだ。運悪く歩行者の横断のタイミングに当たってしまうと、
自転車としては停止せざるを得ない。




道路を渡る人の列を見て、晃一は徐々にスピードを落としていく。
速度が限りなくゼロに近付き、足を地面に下ろしたその瞬間、
後部に、ゴムを押し付けられたような軽い衝撃を受けた。




見れば、4・5歳だろうか。小さな女の子が自転車ごと右斜め54度に傾いている。


「大丈夫?」
ウォークマンのイヤホンを取らずに、晃一は聞いた。
少女は無言で自転車に乗り直そうとする。
晃一は、少女の目に青みがかった細い光を見つけると、
"Alright?"と聞き返そうとして、止めた。


交通整理員が、自転車に進行OKの合図を出す。と同時に、少女を含め
数台のチビッコ自転車が猛ダッシュをかける。
「…急発進。減点一」




補助輪つきの14インチ自転車に乗った少女らは、
神宮競技場の脇を必死で漕ぎ続ける。
晃一は、その後ろを最重ギヤでゆっくりと追いかける。




…分かっている。
自分だって、一応、鉄道会社勤務だ。




バイクではだめなんだ。
ボートでも、車でも、飛行機なんてもってのほか。
そして、彼女の走りも。あれでは、ダメなんだ。




自分に必要なのは、惰性なのだから。




エンジン止めたら失速して墜落して人間ミンチにしてしまう
人類最速の乗り物。それはそれで素晴らしいことだと思う。




でも、自分に必要なのは、惰性走行なんだ。




親父が死んだときも、大学に合格したときも、
初めて女の子に告白したときも、初めての夜を過ごしたときも、
中学校の校内体育大会で優勝したときも、ようやく運転免許を取ったときも、
その3日後、3トントラックに接触して死の淵をさまよったときも。




念願の鉄道会社に内定が決まったときも。




そして、会社を辞める決心がついた今も。



一回ペダルを踏み出せば、足を止めても、自転車はそのまま進んでいく。
一度マスコンを入れれば、ブレーキをかけない限り、列車は停まらない。



自分も、同じだ。



これから、少しだけマスコン切り直して、
そして、また、惰性走行で進んでいくことにしよう。






アクセル踏み続けなきゃ動かないなんて、
それは自分が選択するべき交通手段じゃなかったんだ。たぶん。










周回は、いつの間にか7周目に入っていた。
そして、イヤホンから流れる鈴木彩子のCDも、もう3周目になろうとしていた。








 もしもこのまま周り続けたなら
 何も変わらないのかな?
 今ならば、まだ間に合うさ

 (鈴木彩子「ループ」より)








(一応、フィクションですよ。分かってるとは思うけど。念のため。)






11.2 sat.


一ヶ月近く更新から遠ざかっておりました。
巨人が優勝してしまったり、秋葉原にアソビットシティがオープンしたり、
伝説の深夜アニメ「シスプリ」がいつの間にかまた始まってたりと、
日本を揺るがす大ニュースが立て続けに起こっていたにも関わらず、です。




あさま山荘事件を超える視聴率を目指す当サイトとしては、非常に痛かった一ヶ月。
現在では視聴率も紅白歌合戦なみに落ち込んでしまいました。
「渡辺篤史の建もの探訪」にまだ負けていないのが、せめてもの救いなのですが。




何で更新できなかったかとゆー言い訳は前回のニッキを見ていただくとして、
でも、あんまりシメっぽい話ばかりしていると、それこそ「スウィートデビル」にさえ
負けてしまいかねない状況なので、ここは一つ明るい話題を。




祝・サイト開設2周年!




これからも「心のいこい」のように、細く長くやっていこうと思っとるんで、
とりあえず祝ってやってください。




なお、私の住んでる独身寮には、まだ若干の余裕がございます(笑)。





※茶有注

【スウィートデビル】
98年テレ朝。MAX(全メンバー)主演で華々しく放送開始。
見事9回で打ち切りという大記録を打ち立てた。


【心のいこい】
民放ラジオ各局で朝っぱらからやっている説教番組。提供は念法眞教教団。
心あたたまりつつも、そこはかとなく洗脳色漂うドラマが秀逸。
ちなみに、福岡のRKBラジオでは、この番組に続けて
「心のともしび」(提供:カトリック教会)が放送される。








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