ひとりごと
〜2001.December

A very merry Xmas,
And a happy new year.
Let's hope it's a good one, without any fear.

J.Lennon “Happy Xmas (War is Over)”
より


12.21 fri.

「囚人のジレンマ」という社会学用語があります。
次のような事態の際に表面化するパラドックスのことです。



ある二人組の男(A・B)が、共犯の疑いで逮捕されました。
取調官は、二人を別々の部屋で尋問します。拘留している間、二人は完全に隔離され、話をすることもできません。
取調官は二人に次のような取引を持ちかけます。


・両方が黙秘した場合、二人とも懲役1年。
・一方が黙秘し、もう一方が自白した場合、黙秘した側は懲役10年。自白した側は懲役3ヶ月。
・両方が自白した場合、二人とも懲役8年。


さて、どのような選択をするのが二人にとって最も有利でしょうか?考えてみてください。







さて、正解です。
普通に考えれば、この場合、自白した方が絶対に有利です。例えば、自分が「A」であると仮定しましょう。

Bが黙秘していた場合 ・黙秘すれば懲役1年
               ・自白すれば懲役3ヶ月

Bが自白していた場合 ・黙秘すれば懲役10年
               ・自白すれば懲役8年

つまり、Bが黙秘しようと自白しようと、自分は自白しておけば黙秘するよりも短い懲役ですむ訳です。



さて、正解で見たように、個人から見れば、この場合自白した方が有利になります。
しかし、二人を一つの「集団」としてみた場合、結果は逆になるのです。
これは、二人の懲役年数の合計を考えるとすぐに分かります。


・両方黙秘した場合 : 1年×2=2年
・一方が黙秘、一方が自白した場合:10年+3ヶ月=10年3ヶ月
・両方自白した場合 : 8年×2=16年


A・Bそれぞれ個人の立場から見れば自白するのが最も合理的な選択なのですが、
二人を一つの集団として見た場合、「自白」という選択肢はあまりに非合理的な選択になる訳ですね。



さて、何が言いたいのか、もう分かっていただけましたね。
つまり、
「個人が合理的な行動を追及したとしても、それが集団としての合理性に結びつくとは限らない」のです。



昨日の話題、「フリーウェイクラブ」の話に戻りましょう。
彼らは首都高速道路を500円(もしくはタダ)で通行しています。
それは違法ではないし、個々人にとっては非常に合理的な選択といえます。
しかしながら、集団としてみた場合はどうでしょうか?



現段階で38兆円もの借金を抱えている道路公団に、これ以上収入を減らすような仕打ちをするのは
道路公団の消滅を早めることに他なりません。
しかしながら、今、議論されている改革案は、「道路公団民営化」です。
民営化ということは、道路公団が民間企業、すなわち利益追求の団体にになる訳です。
道路運営会社が民間企業ならば、当然、「高速道路の無料化」は永遠に実現しません。
そんなことしたら収入がなくなって潰れてしまいます。



私は構造改革には基本的には賛成ですし、道路公団民営化も仕方ないだろうと思っています。
しかし、今、高速道路を無料で走るのは、「高速道路を無料で通りたい」という皆のかすかな望みを
神戸空港建設用土として瀬戸内海深くに静めてしまうような行為です。
別に静岡空港建設用土でも、長崎新幹線整備用建材でも、なんでも構わないのですが。
とりあえず、主張と行動が逆ベクトルですよ、ってことを言いたかった、つまりはそういうことです。



まあ、そういう私も、NHK受信料を払っていないという意味では大きなことは言えないんですけどね。
でも、来年こそは、NHKよりテレビ朝日にダメージ与えたい。どうするべきか(笑)。



年の最後にとっても真面目なお話をしてしまいました。
年明け直後に「朝ナマ」やってるような某テレビ局は置いといて、パーッと遊びたいもんですね。正月くらい。
「・・・卒論やれよ」ってツッコミも置いといて、ね(笑)。



 あと何日かで、今年も終わるけど
 世の中はいろいろあるから、どうか元気で、お気をつけて



来年もよろしく美味しんぼ!






12.20 thu.

今年も残すところあと少しとなりました。
時事ネタからアホネタまで話題満載でお送りしてきたこのSay Hello to Max Weber!も、何とか無事に
新年を迎えることができそうです。これも全て池脇千鶴様と辻ノゾミ・・・(以下略)。



さて、毎年言われていることですが、今年もやっぱり激動の一年でした。
何か、私の記憶にある限り、激動しなかった一年ってない気がします。久米さん、筑紫さん、いかがですか?
ちなみに、池田小学校乱入殺傷事件は今年の6月です。すっかり忘れてた方のほうが多いとは思いますが。



小泉政権発足も、今年4月です。
初値は4700円とマクドナルド並み。靖国参拝問題の頃には42万円と電通並みの凄まじいオトコ気指数をつけた
小泉政権ですが、8月15日の靖国参拝を断念したことで急落。その後もズルズルと下がりつづけ、
現在は80円とダイエー並みの低水準。それでもマイカルやら青木建設やら寿屋にはまだまだ負けていません(笑)。
ちなみに茶有市場でのオトコ気指数データより抜粋。



さて、今日の話題は小泉政権の構造改革最大の柱、道路公団改革についてです。



皆さんはフリーウェイクラブという団体をご存知でしょうか?
87年に行われた首都高の通行料金値上げ(\500→\600)に反発した自営業者社長、和合秀典氏が、
公団の指示に従わずに500円通行を強行したのが発端となって創られた団体です。
会員は高速料金所を通る際、「値上げを認めない」旨の宣言書に自分の氏名と連絡先を記入して
500円玉と一緒にそれを渡し、そのまま通過するのです。



「そんな事して犯罪じゃないの?」と思う方もいるでしょうから、少し説明します。
もともと高速道路というのは、作るのにかかったお金を回収できたら無料にする、という前提で作られています。
従って、首都高速やその他交通量の多い高速はとっくに無料になっていなければいけないのですが、
そんなことしたら、公団の収入がなくなる→新しい道路を作れない→ゼネコンと政治家に金が入らない。
それはとてもとても困る訳です。永田町の方々にとっては。



そこで公団が考え出した方法は、「プール制」というやり方です。
つまり、黒字路線の収入を新しい道路の建設費に充てて、計画していた全路線を完成・償還させた後に、
無料開放しようという訳です。これで公団はとにかく計画されていた高速道路の全てを建設することができます。



で、のらりくらりと使われもしない道路を作りつづける内に、たまりにたまった借金が現在38兆円です。
もちろんまだ全線は完成していないので、これからも借金して、とりあえず全部作り上げて、その後借金返して、
そこで初めて高速道路は無料になります。要するに、永遠にその日はやってこない訳ですね(笑)。



これはどう考えても約束違反である。そんな公団の果てしなく続く値上げに従うことなんてできない、と
立ち上がったのがフリーウェイクラブなのです。
現在、この団体は公団を相手に「公団は我々に差額を払えといっているが、払う必要なんてないですよね?」と
確認を求める裁判を起こしています。当然その間は500円で通行しても「違法」かどうかは分かりません。
判決が出るまでは現状維持ですから、公団の言い分に無条件に従う義務はないわけです。



では、裁判で負けたらどうなるのでしょうか。実はクラブは原告側なので、負けても支払い義務はありません。
支払い義務が生じるのは、逆に公団が「お前らとっとと払いやがれ」という裁判を起こし、それが認められたときです。
しかしながら、そのときにはクラブは既に次の裁判を起こしています。
「公団のやり方は約束違反だ。本来なら払う必要のなかったはずのカネを返せ」と。
全部の裁判の結果が出る頃には、おそらく公団そのものがこの世から無くなっています(笑)。



道路公団への非難が強まる中で、フリーウェイクラブは続々と会員を増やしているようです。
つまり、高速道路を規定より安い金額で(最近では無料通行に踏み切ったらしい)通行している人々が
増殖している訳です。



みんな払ってるのに、ズルイ!と思った方。犯罪ではないのですから、自分も参加すればいいのです。
「ズルイ」という言い方は彼らにとっては最も説得力のない批判です。
実際、自分も車を持っていたら、このクラブに入会し、堂々と無料通行していたかもしれません。



さて、皆さんはどう思いますか?この団体。
私には「気持ちは分かる」ものの、理論には根本的な欠陥があるような気がするのですが・・・。


さて、その欠陥とはなんでしょうか?答えはCMの後(笑)。






12.14 fri.

先日、渋谷シネマライズへ、再び「リリイ・シュシュのすべて」をを観に行ってまいりました。
同じ映画を観るために2度も映画館へ足を運ぶというのは、私も初めての経験です。
しかも、CDに加えて原作本、原作CD-ROMまで購入してしまうほどの力の入れよう。
もちろん、卒論(ポピュラー文化分析)の資料として大いに役立つとの思いもあって買ったのですが、
メディアミックス戦略に乗せられてる感も無きにしもあらず。


普段は映画館へ行ってもパンフレットすら買わない私が、なぜここまでハマッているのか。
よく分からないけれど、なぜか作品世界へ引きずり込まれてしまう力があるのです。この映画には。
生まれてから今までに何本の映画を観てきたのかは分からないけれど、
たぶん数百本単位で観てはいるはずだけれど、間違いなく、最大の衝撃作になりました。


一体どのような映画なのか、という問いに関しては、公式サイトを見ていただければと思います。
2度鑑賞して、落ち着いて自分の中で消化して、とりあえず今語っとかないといけないような気がしているので、
今日は勝手にこの映画について語らせてもらいます。






・・・とはいえ、何から話していいものやら。
2度も観て、冷静にこの世界を受け入れることができた(つもり)にもかかわらず、相変わらず私はこの映画を
語る言葉を持っていないようです。とりあえず、印象に残ったシーン。


雄一が万引きして捕まるCDショップ。内装は「Wonder GOO」なのに、カウンターはなぜかTSUTAYA。


「稲森いずみにソックリ」といわれてしまう星野の母親。


・・・こんな印象の残し方はどーでもいいですね。前者なんて北関東人しか分からないネタだし。




津野の「私もカイトになりたい」という一言。
だから飛べない翼を捨てたら、捨てたなら、あたしは舞い上がろう」
途中で引っ掛かってしまった携帯電話。

田園に佇む星野の絶叫。
「愛の実験が私を迷わせる 愛の実験で笑っているの?」
リリイの歌声にかき消されてよく聞き取ることのできない叫び。




2時間半という非常に長い映画であるにもかかわらず、気が付けば、観ながら、「まだ終わるな」と願っている
自分がいました。作品世界に没入しすぎて、映画の外の世界(=自分にとっての現実世界)に
戻るのが怖くなっていたのです。この映画を「外の視点」で捉え直さなければならないのが、怖かったのです。


「現実と虚構の境界が崩れる」とは使い古されたフレーズですが、でも、それとも少し違う気がします。
リリイ〜の場合、作品世界が虚構であることを観客は分かっています。
その虚構は目を背けたくなるほどに冷酷な世界なのですが、でも実はそれは現実世界でも
十分に起こり得るということを私たちは知っていて、いや、むしろ今もどこかで起こっているに
違いないという確信を私たちは持っています。


映画が終わり、外に出れば、私たちは嫌でも渋谷パルコとGAPとユニクロを見なければなりません。
それが私たちに突きつけられる現実です。しかし、自分はつい数分前に経験した虚構が、
実はこの現実世界のどこかで今現在も展開されていることを知っています。それもまた現実です。


虚構の中で、現実世界の中に確実に存在している一側面を突きつけられた私たちは、
映画という虚構が終われば、本当の現実世界へと帰らなければなりません。
しかし、我々が帰る現実世界には、少なくとも目に見える範囲には、あの陰惨な光景はありません。
そこには見慣れた景色、ただパルコとGAPとユニクロがあるだけです。
そして、私たち(私だけ?)は、その現実世界の二面性に、眩暈のような非現実感を覚えてしまうのです。


あのとき映画に「終わらないで欲しい」と思ってしまったのは、おそらく、自分がこの虚構世界から抜け出したとき、
あまりに普通で幸せな現実世界に対して違和感を覚えてしまうであろうことを、
無意識のうちに感じ取っていたからなのでしょう。


そして、その予想は、見事なまでに的中しました。
私は、この映画を観た後、しばらく何をどうしていいか分からず、ただフラフラと渋谷を彷徨い歩いてました。
観る前は、「終わったらラーメン食べに行こう」などと考えていたのですが、
実際はもうラーメンどころではなくなっていました。


蓮見・星野・津田・久野の4人の分身は、必ずこの世界のどこかにいるような気がします。
振り返ってみれば、、かつては自分のすぐ近くにもいたような気がします。
そういえば、自分自身も、蓮見雄一的要素を(彼に較べれば小さなものですが)抱えて生きてきたような気がします。
そう考えたとき、自分の目の前に広がる、あまりにも普通で幸せな現実世界が、
パルコが、GAPが、ユニクロが、現実感を失ってしまったのでしょう。たぶん。





本来、私は、こういうモノの言い回しは大嫌いです。
例えば、私は、表現技法としての「エヴァンゲリオン」には一定の評価をしているものの、
意外にもメッセージとしての「エヴァ」(というよりも「エヴァ」のメッセージを分かったような口調で語りまくる奴)には
強い嫌悪感を持っています。適当な例えかどうかは分からないけれど、そういうことです。


「抽象表現の良さ」って、言葉にすればするほどその良さを失っていくような気がするし、
逆に言葉で代替可能な抽象表現なんて、それは既に抽象的じゃないし。


でも、そんな私でも、「リリイ・シュシュのすべて」を観たときの何ともいえぬ感覚は、
どうにかして言語化しない限り、自分の中で整理をつけることはできないと思いました。
映画の余韻が吹っ飛ぶことは覚悟の上ですが、この劇薬のような余韻を引きずるよりはマシだと思ったのです。
そう思わせるだけの凄まじい力があったという点において、やはり私にとってこの映画は、
今まで観てきた作品の中で最大の衝撃作であり、問題作であったといわざるを得ません。


2回、観て、こうして言語化して、何とか「幸せな」現実世界を、受け入れられるようになった気がします。長かったけど。





何だかよく分からないレビューになってしまいました。
むしろこの映画に関しては、私の方が皆さんの感想を聞きたいくらいなのです。
観た方がいたら、ぜひ、映画館を出た直後に何を考えたか、教えてください。






12.7 fri.

11月11日の日記で紹介した、2ちゃんねるの「筑波大vs慶応大」論争ですが、
久しぶりに見てみたら、まだ続いてました。よー続くわ。さすがにちょっとあきれました。
議論は進展しておらず相変わらずの水かけ論ですが、話はさらに細かくなっていっており、


295:エリート街道さん:01/12/04 01:40 ID:e0b+8gCA

 筑波社学って、法学専攻だけにすればそこそこ実績挙げられると思うんだけどね。
 社会学専攻・・・マジいらねぇ。ここで開設してる講義は他学類が専門的にやってるのばかりだ。
 経済学専攻・・・社工があれば十分。
 政治学専攻・・・政治家になるわけでもなし、筑波には国際とかもあるし。

 社学ならではのってのは法学専攻だけなんだよね、結局。


なんて議論まで飛び出す始末。ここまでホントのことを言われると、さすがに腹が立ちます。
所詮、社会学なんて、いろんな分野の学問を寄せ集めて、エッセンスだけ抽出して、それを独自の批判理論に
照らし合わせる作業の繰り返しだから、こんなこと言われても反論の余地はないのですが。
でも、決して社会貢献できる学問ではないにもかかわらず、やっぱり社会学にはやめられない魅力があるんです。
ハマッた人間にしか分からない、雑多的な思考の楽しさが。


「雑多性」に社会学の面白さを見出す人にとっては、「他学類が専門的にやってるのばかり」が
まとめて学べてしまう筑波の社会学専攻は、やっぱりステキですよ。卒論で死にますが(笑)。


社会学の無意味さと楽しさについてはこれまでにも何度もこの日記に書いてきているので、
これ以上のことはやめときますね。


それよりも、今日の本題はこちらです。
その2ちゃんねるの中で紹介されていた、筑波大の助教授による東大の学生と筑波の学生の比較。
ソースが不明なので、誰が、どこで言ったのかは分かりませんが(投稿者の創作の可能性もアリ)、
でもつくば住人としては思わず笑ってしまうネタだったので、ちょっと紹介しますね(段落分けなど一部改変)。


筑波大と東大、同じ国立大学ではあるが、学生の考え方や生活には大きな差があるようである.
私の知っている筑波大学社会学類の学生と、私の出身で、勤務もしていた東京大学経済学部の
学生を例にとって考えてみたい.

筑波の社会と東大の経済は、社会的には似通った位置にあるようだ.
例えば大学進学者の偏差値で比べてみると、やや東大の方が上だが、それほど変わらない
レベルにある.卒業生の就職先でも、ゼミの学生が今年東京銀行、あさひ銀行、富士銀行、
地域振興整備財団などに決まっており、やはり都銀系の多い東大経済と似た傾向を
持っている.にもかかわらず、東大から筑波に移ってきた時、学生のちがいの大きさには
ずいぶん驚かされた.

例えば東大では入学すると、まずどこの高校の出身か、開成か灘か筑駒か、などを聞き、
早稲田や慶応を蹴ったかが確認されたりする.次に駿台や河合塾(今だったら、鉄緑かSEGか
Z会マスターかなど)に行っていたかなど、予備校のクラス、順位、特待生か否か、などの話で
盛り上がることが多い.

筑波大ではこのような話はほとんど聞いたことがない.お互いに高校の名前には
興味がないようだし、たとえ聞いても知らない場合が多い
高校・大学の偏差値を意識する度合いは東大に比べるとはるかに低い.
これにはおそらく、筑波には有名私立よりも地方の公立高校出身者が多いこと、
地方の公立・私立からの推薦で入ってくる学生の割合が高いことが影響しているのだと
思われる.ちなみに私の講義の出席者は約9割が公立の出身である.

筑波大はいわば偏差値教育から解放された一面を持っていると言えるのかもしれない


私には東大経済学部がどのようなところなのか分かりませんが、少なくとも筑波大に関する記述は
間違っていないかも。「たとえ聞いても知らない場合が多い」なんて、当にその通り。
でもこの助教授のつくば論は、ここからが本番です。


このことは、親の教育熱心さとも関係しているようだ.担任クラスの学生とのコンパで、
ある女子が次のような話をしていた.
両親に「女に教育はいらん.早く就職か結婚をしろ」と言われ、逃れるように
筑波に来たというのである


驚いたことに、同席の何人もの女子から、うちも同じだという共感の声があがった
こういう話は東大の女子については聞いたことがない.東大に来る女子の場合は、初めから
親が教育熱心なのが前提であり、同じ土俵で男子といかに競うかが問題とされるからである.


うそだー。私は聞いたことないよー、そんな話。
でも、これはちょっと気になるところ。実際のところ、どうなんでしょうか?>女性のミナサマ


東大生の場合、偏差値競争にのっとったエリート・コースが期待されるのと逆に、筑波大生は
偏差値意識から多少ともまぬがれている分だけ、より一般的な社会のしがらみに縛られている
面を持っているのかもしれない.

また、駒場から本郷へと移動し、渋谷・新宿・お茶の水などの都心に生活・情報圏を持つ
東大生に対し、筑波大の学生はずっと「東京まで出かける」という地方感覚を持っているようだ.
地方出身の学生がそのまま別の地方に移動したという感じである.


私は、入学前はつくばに関するロクでもない噂ばかりを聞かされていたため、想像以上に発展していたことに
驚いてしまいました。西武を見て、「デパートがある街に住める!」と、ちょっと嬉しかった記憶があります。
私の地元がイナカ過ぎただけなんですけどね。


先日、北京出身の中国人留学生からも「筑波は随分田舎ですね」と言われてしまった.
私の所に相談に来ていた東京・杉並出身の学生も、情報量の少なさに耐えられないと言って、
昨年受験しなおして慶応に行ってしまった.理科系の実験設備の場所としては最適な環境でも、
社会や人間を学ぶ場としては適していないという意見もある.


おっしゃることはもっともです。ただ、北京とは較べないでよ。一応首都なんだから。10億人国家の。


 しかし、多くの筑波大生は逆に筑波のこの環境になじみ、「居心地のよさ」を
感じているようでもある.普段着のまま、気の合った友人たちと自転車や車で大学や周辺を
気軽に移動し、
スパーやココス・牛久ラーメンを友に、平砂や追越、天久保や春日の生活になじんでいく.
講義やサークルにでない自由をも含めて、筑波は「居やすい」、「のんびりできる」場所だと
多くの学生から聞く.ここに、筑波大生らしい特徴が出ていると言えるのだろう.


「スパーやココス・牛久ラーメンを友に」してるヒトって、筑波大生の中でも最高クラスなダメ人間の部類に
属してる気がするのは・・・私だけですか?


真面目で優秀だが、刺激の少ない社会環境や大学側の管理体制ともあいまって、
自発性や積極性に欠けるところがあり、筑波という限られた空間に自ら安住してしまう所である.
逆に言えば、都会の派手な流行に左右されることなく、自己の内面に沈潜したり、
一つの事にじっくり取り組むことができる面をも持っている.

筑波大生は、東大生や他の私立大生に比べて、概して偏差値コンプレックスから自由であり、
その分素直で、いい意味の素朴さを持ち続けているように見える.
これからも、こうしたメリットを生かしつつ、同時に、筑波が環境的に持つさまざまな制約を、
自ら突破し、切り開いていくようなたくましい行動力を身につけていってほしい.


ツッコミどころの多さの割には、きれいにまとめられてしまいました。
基本的にはこの助教授、筑波大生の性質をうまく捉えてるとは思うのですが、
やっぱり「スパー・ココス・牛久ラーメン」はちょっとね。個人的には。つくばダメダメ三種の神器(笑)。






[PR]動画